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『女たちは二度遊ぶ』
吉田修一が描く、印象に残る十一人の「美しい」女たち

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ひところ「泣ける〇〇」というのが流行った。映画だったり小説だったり媒体は様々だが、お定まりの「感動」を消費させるある種のシステムだったモノで、2000年代の日本に実に顕著だったように思う。例えば恋愛や家族モノなら、主要人物が余命いくばくもなく、それを巡って「レッツひたむき!」なアクションをオーバーなくらい盛り込んで一丁上がり、だ。

我々が味わう恋愛や恋愛にならない程の寸劇は、概して感動的なものではなく、むしろ「ありふれたワン・シーンに過ぎないもの」が大多数なので、それは一種の「逃避」のための装置としては、確かに機能するものだった。

しかし敢えて短篇小説という舞台で、フィクションでありながら読者に「逃避」を供与しない、鋭利かつ巧みな事例がある。吉田修一の『女たちは二度遊ぶ』がそうだ。「フィクション=逃避」の式から逸脱していながら面白い作品というのは、「逃避」のための装置よりも遥かに難易度の高いもの。ゆえに、巧みと表現し得るほど、希少価値があると言えよう。


『女たちは二度遊ぶ』
角川文庫
定価:税抜476円
11の物語、主人公は全員男。失業保険でパチンコ三昧の無職の男だったり、夜ごとに違う女を釣って楽しむ学生だったり、凡庸な中学生の男の子だったり、長所より短所を浮き立たせた形で描かれる男がほとんどだ。それぞれが日々の中で淡々と女と出会い、すれ違ったかどうかさえ分からないような時間を送り、女たちは不思議な「印象」だけを残す。そしてそれがどうしようなく美しく、面白い。

クラスメイトとしてなり、同棲相手としてなり、同僚としてなり、誰しも必ず異性と過ごした時期があり、そこに少し特別な感情の萌芽を感じた経験があるだろう。ドラマチックではないありふれた毎日の中で男たちがつむぐ物語は、どんな読者にもその感覚を思い出させる。そして、そこにひとかけらの後悔を宿させる。「逃避」というより、むしろ自己の内面をさまよう感覚に近い。

物語の中の独白に、「好きでなかったわけではない。ただ、好きだったわけでもない。きっとこれから好きになれると、そう思っていた」なる一節がある。つまりこの短編集が含むのは、そういったものなのだ。

過去と現在の間隙で、何気なく突出して来る男女の妙。その正体を改めて認識させ、愛でるように、手向けとして添えられるような物語。それが『女たちは二度遊ぶ』なのだ。


「女たちは二度遊ぶ 『どしゃぶりの女』第一話」


作品情報

・作者:吉田修一
・出版:角川書店(2006年)







 

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