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『如是我聞』
太宰治の文章、その身体性

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これを読めば作家、太宰治の文章に対する執念とこだわりが分かる、という作品は、管見では彼の小説ではありません。太宰治の晩年のエッセイである、『如是我聞』だと思います。

太宰治と聞くと、どうにも好き嫌いが分かれるかもしれません。今でも一定数の読者を獲得する、時代を超えて愛される小説家。一方では、ネクラそうで精神的に不安定で、その作品を読んでいるとイヤな気分になる問題児。

太宰の評価となるとこの2つに大別されるのではないでしょうか。勝手な印象ですけど。

なので、ここでは『如是我聞』の内容については触れません。当り前のことを言うようですが、その文章を考察するにおいては、内容なんて副次的なものでしかありませんからね。

まず念頭に置いて頂きたいのは、このエッセイ、太宰が新潮社の編集者に口述筆記させたものだということです。太宰は編集者を呼びつけ、酒を含みつつ、よどみなく口述したとのこと。これだけなら、それがどうした、別に珍しいことでもないだろ、と思われても仕方ありません。しかし以下のような後日談があるのです。

太宰が亡くなりだいぶ経った平成10年、太宰の手による『如是我聞』の草稿が発見されました。それは既発の原稿とほぼ同一的なものだったと聞きます。

おかしいでしょ? 自前の草稿が出来ているなら、わざわざ編集者を読んで口述する必要はない。逆から言えば、手書きの草稿のことばは、「人間の身体」を通して出てくることばには勝ることはない。身体性を伴ったことばほど強いものはない。晩年、つまり自殺直前の太宰は、そう確信していたのだと考えられるのではないでしょうか。

太宰の作品は、読んでいて作者を身近に感じやすいとよく言われますが、彼の文章の特徴は、読み手の「身体」に食い込んでくるところにあります。読んでいると太宰のことばが自分の皮膚に、産毛に、細胞に絡みついてくる。そんな感覚を覚えた読者も多いのではないでしょうか。私が言う「強いことば」とはそういうものです。

ことばは頭で考えて編み出される。一般的にはそう考えられています。しかし皆さん、こんな経験はありませんか? 理路整然とした文章上の論考より、誰かが何の気なしに口から発したことばの方が、なぜか長く心にひっかかる。ことばの内容は、実は副次的なものでしかない。内容が何であれ、身体性を伴ったことばというのは、そのぶん私達の「身体」に強く刻まれるものなのです。

太宰は小説家としてそのことを強く自覚していた。だから草稿だけでは足らずに、ことばを一旦「自分の身体」を通して出力し、さらに誰かの「身体」を通しておきたかったのではないかと思います。太宰は、どういった理由や経緯があったにせよ、『如是我聞』発表後まもなく他界しました。しかし彼の「身体性」を伴ったことばは、今も根強く残り続け、多くのフォロワーを生み出しているのです。


作品情報

・著者: 太宰治
・発行: 新潮社(1948)





 

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