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『ドラゴン桜』
期間限定の思想?

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漫画家の三田紀房が、二十一世紀序盤の二〇〇三~〇七年、講談社の『モーニング』誌上で連載していた漫画。それが『ドラゴン桜』である。

話は、元暴走族の弁護士が、経営破綻に陥った高校「龍山高校」を再建し、その功績を踏み台に自分のキャリア・アップを企てる所から始まる。と書くと、経営問題を主題にしたビジネスマン向けの漫画と思われるかもしれないが、そうはならない。この弁護士=桜木建二は、龍山高校の学生を東京大学に受からせることによって、学校を一流の進学校として再生しようと画策するので、話の主軸は「大学受験」になる。

桜木は社会人ではあるが、別に東大を出た学歴エリートではない。だから自身が培った受験メソッドを学校側に施すというわけにはいかない。そこで彼は、受験のスペシャリストである教師を龍山高校に招聘し、東大受験を了承した学生達の授業を担当させる。時は二十一世紀序盤。前世紀末(九〇年代序盤)の金融バブル崩壊からこっち、巷間の景気は低迷する一方で、世相は荒れ放題である。少年犯罪や保険金殺人、企業の倒産などが相次ぎ、失業率も自殺者数も高水準をキープ、それが常態化していた。

実社会の荒波を体験してきた桜木は、龍山校の「東大に行くとかムリ」と弱腰の女子学生に笑いながら言う。社会で真っ当に生きていくことは大変難しい。その困難に比べれば、東大合格なんてラクなもんだと。そして桜木は、生徒達と二人三脚的体制で、受験に向けて邁進していく。

当時、本作が人口に膾炙した要因の一つは、おそらく桜木と生徒達の関係性を描いた所にある。というのも、高校生の多くは、家族以外の「年の離れた社会人」との交流などないからである。実際、私も高校時代にそういう交流は持たなかった。そして(当たり前ながら)高校生は大学に行ったことがない。そうなると、高校生にとっては、自分の目の前に漠然とあり続ける「大学受験」とは何なのかが、今一つピンとこない。「なんかそういうテストが自分の将来にあることになってんだよな」くらいの認識だろう。つまり大学受験を相対的に把握することが、彼ら高校生には絶望的に難しい。仮に「年の離れた社会人」との交流があっても、その人が自分の言葉で「社会総体から見て、大学受験とはどういうものなのか」を、納得が行く形で説明してくれるとは限らないし。だから桜木と学生達との濃密な交流、彼らの関係性に、ある種の憧れを抱いた読者は存外多くいるのではないかと愚考する。

本作は単行本が累計数百万部発行されるほどヒットし、二〇〇五年にはTBSでドラマ化もされた。が、作品が設定したゴールが「東大合格」である以上、キャラクターに延々と受験勉強させるわけにもいかない。終盤で彼らは東大を受け、それぞれの結果を出し、物語は二〇〇七年に幕を閉じる。

と、話はここで終わりではない。もう少し続く。時が流れて平成が終わろうという二〇一八年、本作の続編『ドラゴン桜2』が始まったのである。その内容は前作同様、「高校生の東大受験」で、要するに『ドラゴン桜』のアップデート版だったのだが、こちらはさほど振るわず、二〇二一年の春に閉幕する。

この差は奈辺に由来したのか。おそらく「東大に行く」の意義が〇〇年代半ばと二〇二〇年前後では、大きく異なっていたのだろう。だから民衆は、『ドラゴン桜2』にはあまり関心を寄せなかった。

本作では桜木が「東大に行けば人生が変わる、だから東大に行け」と生徒達に説く。それは「東大出=エリート=薔薇色の人生」という幻想を人々が信じていればこそ成立した言い分だろう。実際、〇〇年代半ばにはそれが通用した。だからヒットしたのである。

日本で暮らす民衆の日常に、東大出などそうそういない。高学歴の人は高学歴の人同士で固まっていることが多いから、庶民にとって「東大出」はなかなか見当たらない遠い存在にもなる。そういう距離があればこそ、「東大を出たらきっと素晴らしい人生を過ごせるんだろうな」という夢想も成立した。

庶民にとって「東大出」で最も浮かびやすい職業は、おそらく霞ヶ関の官僚である。官僚が真っ当に仕事をして、不自由ない生活を送っていれば、東大幻想は今でも根強くあったろう。しかし〇〇年代、一〇年代を通し、官僚は「ろくなもんじゃねぇ」という仕事を世間に晒してきた。年金機構のあまりに杜撰な体制から、各省庁の公文書の隠匿や改竄、果ては保険証の強行的な廃止や、インボイス制度の一方的な導入に至るまで。そのあまりの愚かしさが祟ってか、二〇年代に入ると、官界や政界でも人手不足が広く言われるようになる。それは「高学歴幻想の終焉」を告げるものでもあるだろう。

九〇~〇〇年代、世相は荒れた。荒れた空気が常態化すれば、東大や東大出も少なからず荒む。一〇年代から二〇年代にかけて多くの官僚や学歴エリートがさらした無様は、その成り行きに即した必然であろう。だからもう『ドラゴン桜』はウケない。かつて支配的だった「東大出=エリート=薔薇色の人生」という幻想は、もう信憑性を失っているのだから、当然の帰結である。本作が広言した「東大に行けば人生が変わる、だから東大に行け」とは、即ち期間限定の思想だった。そう言っていいと私は思っている。

作品情報

・作者:三田紀房
・発行:講談社





 

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