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『方丈記』
鴨長明は何を「見なかった」のか?

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京都市左京区の一角、京都内の神社の中でも最古の部類に属する賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)が建っている。通称「下鴨神社」である。京都の神社の中でもサイコ、じゃなくて最古の部類ということは、いつ頃造られたのか。それが判らない。判らないくらいに古いのである。



賀茂御祖神社(下鴨神社)

とはいえ、どのくらい古いかの目安がつけられないわけではない。少なくとも鴨長明が生まれた頃にはすでにあった。鴨長明といえば、ご存知『方丈記』の著者である。彼が生まれたのが平安末期、西暦でいうと1115年。下鴨神社の禰宜の次男坊として彼は生を受けたので、少なくともその頃には下鴨神社はあったということになる。

さて、その鴨長明とはどんな人だったのだろうか。

彼は一応、下鴨神社に生まれたものの、人生の華は幼少時代だった。早い話、十代で没落するのである。社会保障などの概念がない時代。家を追われた彼は祖母の家で10年以上ニート生活を送り、ついにはそこも追い出される(そりゃそうだ)。

ただ、長明は和歌や琵琶などに長けていたらしく、やがて後鳥羽院(第82代天皇)や源実朝(将軍)から「ねぇ長明くん、きみ、ウチで働かない?」と目をかけられた。しかし彼は「ぼくの望むポストに就かせてくれなきゃやらないです」と言ったとかで(難儀な性格である)、ことごとく再就職に失敗する。そして「もう人生なんて無常だ、チクショー」となってしたためたのが『方丈記』である。

彼は『方丈記』の冒頭にて「変わらないように見える川の景色も、その流れは絶えることはなく、また一度として止まることもない。人も住まいも同じである」と語った。家へのこだわりを捨てようと叙したのである。方丈とは四畳半くらいの簡易住居みたいなもので、下鴨神社の境内には、長明の方丈を復元したものが展示されている。

とはいうものの、その方丈の建築様式には、下鴨神社のそれが一部採用されているとのこと。やはり家にこだわっていたのである。

『方丈記』は鎌倉時代に成立したエッセイである。しかしそこには災害などで家や人が失われてゆく様こそルポルタージュされているが、あってしかるべきものがほとんどルポされていない。戦争である。戦乱の世にあって、鴨長明はなぜか戦争を見なかった。人は自分が意識しないものはエッセイに書かないとすると、彼は社会の動きに━━当時、「社会」という概念はまだなかったわけだけど━━目をやる気がなかったとも見受けられる。

当今でも『方丈記』を評価する人は多い。ミニマリズムの古典だとか、ナチュラリズムの鑑だとか。そう捉える人たちをどうこう言う気は毛頭ない。しかし「書かれていること」を読むのではなく、「そこには何が書かれていないか」を読もうとする場合、このエッセイストは「自分と自然」以外は気にしていないのではないか、と思ってしまうのである。いつの世も、社会にうまく溶け込めない人っているんだな、と妙な親近感は湧くけれど。


作品情報

・著者:鴨長明
・成立:建暦2(1212)年





 

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