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『どくろ杯』『ねむれ巴里』『西ひがし』
金子光晴は自伝を書き、何を取り戻したのか

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明治から昭和にかけての詩人、金子光晴の特徴を、その詩作以外で述べるなら、やはり自伝を何度も書いたことだろうか。『詩人』(平凡社)や『マレー蘭印紀行』(山雅房)を始めとし、晩年には『どくろ杯』『ねむれ巴里』『西ひがし』(すべて中央公論社)と、自伝3部作を発表した。今回は、彼の晩年における自伝3部作について。

と言っても、内容は彼の東南アジアやヨーロッパでの放浪記である。エロスの誘惑と逡巡が右往左往している印象であり、読後感は何処かヌメッとしている。金子は現実世界を生きてはいるのだが、それを受け入れている感じではなく、自然と閉塞感がそこはかとなく漂う。


むしろ今を生きる私たちが彼の姿勢から学び取れるのは、自伝をたびたび書く重要性ではないだろうか。人間というのは、年老いてくると自らの航跡を目に見える形で残したくなるものらしい。しかしたとえばあなたが現在25歳以上だとして、あなたの幼少の頃の履歴など、どうやって確認できようか。現実か夢かも判別できない、おぼつかない記憶だけを頼りにするしかないというのに。

正確な自分史を作ろうと思えば、小中学生辺りから自分の過去を整理し出しておかないと、本質的には手遅れである。なにしろ資料は、どんどん消失されてしまうのだ。別言すれば、それなりの歳になってからしたためる自伝などは、自らの人生における地図と羅針盤の再確認以上のものには━━少なくとも著者本人にとっては━━なりえないのである。


金子がその点について無自覚であったはずもなく、彼は恐らく、「その時の自分」の感性で自分の過去を捉え、自らの生を再確認したはずだ。だからこそ、この3部作には自伝にありがちな虚飾性がほとんどない。詩人が責任を負うべきは言葉の真偽ではなく、言葉の美醜である、と言ったのは谷川俊太郎だが、詩人としての自分の言葉を尽くして、自らをさらし、描き、生き直そうとする金子の姿が、ここには透けて見える。

余談だが、B’zのヴォーカルのソロ・プロジェクト「イナバ・サラス」の歌に「NISHI-HIGASHI」というのがある。旅行にまつわるエトセトラをたたえたポップな歌だが、金子からインスパイアされたものでもあったのだろうか?


作品情報

・著者: 金子光晴
・発行: 中央公論社





 

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