その女には教養があり、センスがあった。運もあった、と言っていいと思う。彼女は、自分が心から尊敬する主のもとで働けたわけだから。男であれ、女であれ、人生において、この人に仕えられて幸せだと思える主に巡り合うことはそうそうない。そういう人に巡り合えたというのは、運があったと言っていいんじゃないかと思う。
もっとも、彼女の最上の財産はと言えば、やはりその清く純粋なキャラクターであったと思う。たぶんそれこそが、彼女が書いた世界最古のエッセイ『枕草子』を、平成の今もなお、燦然と輝かせている。
昔、ある武骨な男と結婚し、子供をもうけた。のちにこの男とは離婚した。仕方がなかった。私は体育会系とは相性が悪いのだ。でも、そんなことは大した問題じゃない。だって私は定子さまにお仕えできたのだから。ときの中宮、藤原定子の女房として数年間、女は宮中に勤めていた。定子はうつやかで教養もあり、またその人品において優れていた。女は、定子に仕えることを心からの喜びとしていたし、定子もまた女を寵遇した。
幸せだった。この世に楽園があるなら、それは定子さまと過ごした一日一日の他にはありえないだろう。けれどすべての蜜月がそうであるように、女の至福の日々は長くは続かなかった。
定子の父、藤原道隆が亡くなり、弟の道長が後釜に座った。政治の世界、権力闘争。宮中にあっては仕方のないことだ。それにしてもむごい。道長さまは定子さまのお兄さまに言いがかりをつけ、流刑に処した。不運は重なるもので、定子さまは程なくしてお母さまとお家をも失われた。定子一派は政治的に迫害されることになったのである。定子さまはすっかり衰弱されたご様子だった。おいたわしい。私もスパイ容疑をかけられたりしたけど、定子さまの嘆き、悲しみを思えばどうということはない。でも、このままここにいては定子さまに更なるご迷惑をおかけしかねない。私は宮中から身を引くことに決めた。
女は深い失望のうちに引きこもる。あの光り輝いていた日々は何だったのか、あの幸福は何だったのかと。ある日、女のもとに紙が届く。当時、紙や絹織物は貴重品だった。定子が女を元気づけようと紙を送ったのだ。ご自分のお心もまだ穏やかではないでしょうに。私なんかのために。私なんかのために。
女は筆をとり、その紙の一枚一枚に、自分が過ごした幸福な日々を、共に過ごした定子の人品を綴った。情感たっぷりに。女は感情で記憶するという。だから私は宮中で素晴らしいと思ったこと、憎らしいと思ったこと、尊いと思ったこと、その一つひとつを丁寧に思い出し、慈しむように叙した。
定子さまは24歳で亡くなられた。けれど定子さまはお隠れにならない。定子さまと過ごした輝かしい日々も消えはしない。消させなどしない。この手記がどうなるのかはわからない。公にするつもりなど毛頭ない。どうでもいい。でも、ここに叙されている限り、あの日々は永遠に続く。
女は、清少納言と呼ばれている。本名はわからないし、また本当に少納言職に就いていたのかもわからない。一切が謎に包まれている。