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『デラックスじゃない』
マツコ・デラックスによるマツコ・デラックス

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人がエッセイというものを読む際、いちばん重要視しているのは恐らくコンテンツだろう。この人はどんな考え方をしているのか。どういったテーマでどのようなことを語っているのか。それらが、ほとんどの読者が一番興味を持つところだろうと愚考する。

しかしマツコ・デラックスの『デラックスじゃない』(双葉社)を読むと、必ずしもコンテンツだけが重要ではないのだな、と思えてくる。何というか、コンテンツの「差し出し方」も大事なんだな、と。

今作は、双葉社の『EX大衆』上でマツコが連載したエッセイから、「マツコ本人」についてのものを絞って選出したコンピレーション。だからして、マツコがどういった生活をしているのか、どういった考えで「電波芸者」を演じているのか、などが叙されている。申し分のない「エッセイ」である。ちなみにすべて口述筆記なので、テレビでマツコにお馴染みの人は、読んでいるとあの口調が浮かんでくるのではないだろうか。

内容は、はっきり言って真っ当なものばかりである。48グループや紅白への批判などは、「テレビの中の人」だからこその視点が充分に発揮されており、思わず、なるほどと唸らされる。書かれていること全部に納得できることはないが(当たり前である)、文中でマツコ本人が語ったように、極めて常識的なモラリストとしての視座に裏打ちされていることは確かだと思う。

ただ、読後に少し違和感が残る。これは私の本棚に置いておくべき本ではないと直感が告げる。なぜだろうか。読了後しばらく振り返ってみたのだが、思い当たるのは、これらのコンテンツの「差し出し方」が私には受け容れられないということである。

マツコの基本精神はマイノリティである。日陰者と別言してもいい。だからこそ「電波芸者」足り得るのだし、その思想にはある種の普遍性が宿る。逆説的だが、ある度量衡において普遍性の外側にいる人(それがマイノリティということである)の方が、普遍的なものとは何かを知っているのである。ある集団から仲間外れにされた人の方が、内部の人よりもその集団内の関係性や集団の構造を把握しやすいのと同じように。

その基本精神ゆえ、このエッセイには自虐が多くインサートされている。マツコからのエクスキューズなのか、ある種の免罪符的なものなのか、そんなことは知らないが、とにかく自虐が多い。本人も「『自虐』ってラクよ。その代わり、大事なもの、失うけど」(前掲書、47頁)と語っているくらいである。

そして、自虐ばかりの人を長く相手するのが疲れるように、読んでいてブルーになってしまうのだ。「うん、いや分かったから、もういいよ」と思ってしまう。コンテンツが良いだけに、この差し出し方でなければと思うところだが、それも含めてマツコなのだから、これはもう仕方がない。マツコ・デラックス本人について、また彼の思想について楽しく読める。そういうエッセイであるのには間違いないのだが。


作品情報

・著者: マツコ・デラックス
・発行: 双葉社(2014)







 

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