『紫式部日記』には罠の気配が漂う。そんな気がする。蠱惑的とかいう意味ではなくて、全体的になんだか微笑で地雷原に誘い込まれているような「気配」がするのである。休日の朝、上司の若奥さんから言葉少なめのお誘いメールをよこされたときのような。
紫式部といえば、ご案内の通り、平安の長編名作『源氏物語』の作者である。その彼女が『源氏物語』のヒットを機に、ときの権力者、藤原道長に招かれ、宮中に入った。さぁ華やかなセレブ生活のはじまり、はじまり。かどうかは判じかねる所であるが、ともあれ、彼女が宮中で過ごした中での約2年間を凝縮してお届けするエッセイが『紫式部日記』となるわけだ。
しかし何というか、紫式部はこわい。深読みしなきゃいけないような、内容を額面通りに受け取ったら鼻で笑われそうな、罠の気配がそこかしこに漂う。
たとえば『紫式部日記』の中で一番有名であろう、清少納言を酷評しまくった清少納言評だ。紫式部は清少納言と一面識もないはずなのだ。紫式部が宮中に入ったのは、清少納言が退職してから数年後のことだからして。
なぜそんな赤の他人を、貴重な紙幅を割いてまで(当時は紙や絹織物が貴重品とされていた)ディスらなきゃいけなかったのか。紫式部の上司の彰子と、清少納言の上司の定子がライバル関係にあったから政治的意図があった。あるいはこの日記はもともと紫式部の実子に宛てた私信だったため、「宮中で清少納言みたいに振る舞ったら冷遇されるから気を付けて」との意味がこめられていたなど、さまざまな憶測がある。
つまりおそらく、『紫式部日記』を読むにおいては、「何が書かれているか」もさることながら、「なぜこのことがこう書かれているか」を考えなくてはいけない。そんな気がするのだ。意中の人に告白したら、ふっと横を向いて目を逸らしたまま無表情で「‥‥‥うん」と言われたときのような(言われたことないけど)。なんとなく言葉にならない、奥に隠された意味がありそうな。
藤原道長についての言及もしかり。日記には、夜、道長が紫式部の局を訪れたという一節がある。しかし性的関係についてまでのあからさまな言及は、紫式部はしていない。
こわい。なんだろう。言わなくてもどういうことか、わかるわよね? と紫式部さんに試されている感じがする(わかりにくくて申し訳ないが、「行間を読んでね」「字面はこうだけどね」と訴えかけてくる文章というのが、世の中には確かにあるものなのである)。
きっと紫式部と藤原道長はなかなか親しかったのだろう。実際、彼女は未発表原稿が紛失した折、「
きっと道長さまだわ、もう信じらんない」とぼやいている。平安時代というのは男女関係におおらかだった時代で、道長と紫式部が関係を持っていたとしても、そこまで大きな問題ではない。しかし彼女がなぜこんなことを書いたのか。それは誰に何の目的で宛てられたのか。言わなくてもわかるわよね? と随時、彼女の目に問いかけられている気がする。
きっと宮中生活って、こんな感じでストレスフルだったんだろうな。全然違うかもしれないけど。
もちろん、才女であった紫式部なので、単純にエッセイとして読んでも楽しめるとは思う。『紫式部日記』の中には、まるで『源氏物語』の注釈がまるまる本になったかのように、実際の宮中生活が色濃く、鮮明に、ありありと描写されている。紫式部の筆致力がいかにずば抜けていたか、彼女の叙景から伝わるのではないかと思う。