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本能寺
本当は怖い、戦国時代の本能寺?

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こんにちは。本日のお題は、おそらく日本で日本史を習った人の間で一番有名な寺院ではないかと思います。1415年、日隆という僧侶が開基した本能寺です。もともとの漢字は「本応寺」なのですが、1433年の再建の際に現在の寺号に改めたそうです。(現在の場所に移転したのは1591年)

寺院を語るにおいては、宗教や宗派が大事なポイントになってくるものです。しかし、本能寺はたぶんそんな細かいことを抜きにして有名ではないでしょうか。そうです。あの戦国の名将、織田信長が死んだ(とされる)お寺として、です。今の教科書でも「本能寺の変」と習うんでしょうかね。

そういうわけで、ここでは「本能寺」を、その宗教性などは一旦横に置いといて、「織田信長」を軸に語ってみたいと思います。



織田信長というと、どの文献を見ても信心深いとは思えない━━比叡山の焼き討ちなんか典型的ですよね━━人物です。そんな人がなぜ本能寺へ赴き、またなぜそこで絶命へと追い込まれなくてはならなかったのか。そう疑問に思ったことがある方も多いのではないかと思います。

ちなみに、織田信長といえば「尾張(今の愛知県西部)の人」との印象が強いかも知れませんが、本能寺があるのは京都です。今では商店街、アーケードに面して建っています。

織田信長がなぜ本能寺に泊まっていたのか。実際の理由はわかっていません。ということは、考えられる可能性はふたつです。書き記したり、誰かに伝えておいたりする必要のない、他愛のない用事であったか、もしくは秘密にされて然るべき用件であったか。

当時の彼はVIPです。つまり暗殺される可能性と四六時中、隣り合わせで生きていたはずで、それなら無用な外出(まして遠出など)は、極力避けるのがセオリーでしょう。したがって、前者の可能性は極めて薄い。



では後者なのか。そこを考えるには、まず本能寺とは当時、どんな寺院だったのかを知ることが肝要です。本能寺は法華宗本門流の総本山にあたるわけですが、当時、本能寺の代々の高僧は活発な布教活動を行ない、堺や種子島にまで法華宗を広げていました。やがて1543年、ポルトガルから種子島へ鉄砲がもたらされます。すると、法華宗の外護者であった種子島の大名は、本能寺を通じて、足利将軍などに鉄砲や火薬を献上するようになりました。

つまり当時の本能寺は、檀家に堺の貿易商などがいたこともあり、種子島から京都へ、武器弾薬を流すハブ(中継地点)として機能していたのです。現代における北朝鮮、みたいな感じでしょうか。

信長は、鉄砲の機能性、有用性を逸早く認めていた武将と伝えられます。彼にとって本能寺が要衝であったことは想像に難くありません。そんな所で下剋上に遭い、絶命するとは、ある意味で運命の皮肉という気もしますけど。







 

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