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日本の地ビール
麦酒倶楽部「ポパイ」オーナー

青木 辰男

< 2013年11月01日 >


日本の地ビール(クラフト・ビア)を語る上で欠かすことの出来ない、地ビール通の間で「聖地」とされるビール・パブが東京・両国に存在する。常に70以上の地ビールを用意する、『麦酒倶楽部ポパイ』と名づけられたその店内で、同店のオーナーでありNPO法人「日本の地ビールを支援する会」理事長でもある青木辰男さんに、日本の地ビールや『ポパイ』の理念などについて、お話をうかがってみた。


■ 本日はよろしくお願いいたします。まず、こちらのお店を立ち上げた経緯についてですね、つまり『ポパイ』を何故作ろうと思われたのか、また何故それが東京の両国なのか、ということからお伺いしたいのですが。

青木辰男(以下;A):(『ポパイ』は)1985年にオープンしたんだけども、まぁ、その時の僕のコンセプトは、パブを作りたかったんですね。その当時の日本のパブっていうのは、いわゆる女の子がいたりして、外国の、例えばアイルランド辺りでいうパブとは、ちょっと・・・


■ 全然違いますよね(笑)。

A:そう。で、当時ショット・バーとか居酒屋チェーンとかが出たりしていたので、その中でパブをやろう、ということで立ち上げたんです。当時は「パブ」だと(前述の、女の子が付くような店と)誤解されるので、洋風居酒屋としてスタートしました。場所は・・・それまでにも、僕も色々やっていましたから、人の縁でたまたま両国になっただけなんですけど。


■ 「ここで商売してみないか」という人がいたという訳ですね。でも『洋風居酒屋ポパイ』って名前だと、お客さんは一般のいわゆる「居酒屋」を求めて来ませんでしたか?

A:来ましたね。だからそういうお客さんが求めてくるものと、僕の思い描いているパブっていうもののズレによるジレンマはあって・・・で、10年位経って、(1994年に酒税法が改正されて)地ビールが解禁になって、「ああ、ようやく僕が思うパブが出来るかな」と思いました。地ビールを集めるのも、それまでにお付き合いがあった業者の方とかのおかげで、割と苦労もなく(笑)。




■ そこでも人の縁が活きてきた、と。じゃ、そこで、それまで抱えてこられたニーズとのズレだとかジレンマだとかは解消されたんですか?

A:いや・・・当時は地ビールを提供しても「こんなのビールじゃない」って言われて。(アサヒ)スーパー・ドライを飲んで帰るお客様がほとんどでした。大手が作ってきたビールのイメージが刷り込まれちゃっていて、それ以外のビールって、ビールとして認知されなかったんです。面白がって何種類か(ビールを)混ぜるお客さんも居て、それを見て頭にきて、「帰ってくれ!」って言うこともありました(笑)。


■ チャンポンですか、もったいない話ですね(笑)。そうすると、国が奨励した割には、消費者に地ビールは根付かなかった感じですね。

A:値段も、当時は大手のビールの3倍はしましたからね、地ビールは。今は倍くらいですけど。だから、国が地ビール作りを推奨はしましたけど、消費のブームっていうのは全く起きてないわけです。一時期は350社くらいあった地ビールのメーカーも、今、実際に動いているのは150~160と云われていますから。美味しいビールを作っていたのに無くなったメーカーさんもあるし・・・ま、原因は、ビールの税金が高過ぎるとか色々ありますけど、(お酒の)小売店の規制緩和が中途半端なんですよね。


■ 未だにタバコとかだと、販売するのに人口や店舗距離で規制されている(例外はあるが、タバコ販売店から直線で50m以上離れていないと、タバコの販売免許が取れない)ような・・・

A:そう、その人口・距離(の規制)の撤廃が遅れたんですよ。だから、メーカーは自分で作って自分で売るしかなかったんです。酒屋さんとかデパートに並べるとかは(物理的に)出来なかった。で、なんでそれが出来なかったかっていうと、大手の見えない圧力とかあるわけですよ。


■ ビールの自由化は困るから、と(笑)?

A:まぁ、地ビール・メーカーさんが「ウチの商品を置いてくれ」って時に、お店や業者に圧力があったりして置いてもらえないとかが、結構ありますからね(笑)。居酒屋さんとか酒屋さんとか、〇〇ビールの系列って、それぞれやっぱりあるじゃないですか。メーカーだけじゃなくて卸(おろし)とかでも、既得利権のそういうのは、やっぱりあるんですよ。さっき言った税金の話とかも結構色々ありますよ(笑)。