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■ 3月31日~4月29日にかけて、「日本のお菓子」を取り扱います







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横浜名物
崎陽軒 取締役

君塚義郎

< 2017年01月28日 >

横浜名物、崎陽軒のシウマイ弁当。横浜はもちろん、東京でも販売されている、全国の名物駅弁のひとつだ。東京や横浜から西、あるいは北へ新幹線で向かう(帰る)時のお供としてお馴染みだと言う人も多いだろう。

その崎陽軒の君塚義郎取締役に話を伺う機会を得た。すでに創業100年以上を誇る企業ゆえ、ぶっちゃけて言うと、平穏な話に終始するのではと思っていた。しかし話を伺うと、さすがに老舗は常に問題意識を持っているようで・・・



■ 崎陽軒本社 外観

君塚義郎(以下、K): 課題のひとつが、現在の商品価格をいかに維持するか。今はいろんな国が、日本と同じような経済水準になってきています。つまり、シウマイや弁当を作る原材料の価格が高騰している。


例えばアフリカだ。今でも日本人のいくばくかは、アフリカと聞くと、未開の土地というイメージがわくだろう。しかし実情は違う。21世紀に入ってのアフリカの経済成長は凄まじく、海外市場のひとつとして無視できない位置にまで来ている。おかげでヨーロッパの人々は、アフリカから歴史的報復を受けるんじゃないかと、戦々恐々としているとかいないとか。

K: 崎陽軒の商品は長く親しんでくださっているお客様も多く、慣れ親しんだ味わいや品質を簡単に変えることはできません。ですので、こうした状況下でも、いかに商品の品質や価格を維持するかということは課題になります。


人の現実は立ち位置によって異なる。つまり、君塚が考える課題は、君塚の立ち位置を前提としているのだ。してみると、その課題を正しく把握するためには、彼の立ち位置、ひいては彼のキャリアや仕事観を、まずは把捉しておく必要があるだろう。君塚のキャリア、その出発点をたずねた。

K: 劇的な話はありません。四年制の大学へ行って、就職活動を経て、1983年の3月に入社しました。当時は、3月に入社式がありました。東京の出身ですから、崎陽軒の名前やシウマイ弁当の存在は、知ってはいましたけど、まだ浜っ子にはなっていませんでした。(笑)

なぜ崎陽軒を選んだか? 当時はバブル景気の前ですから、就職戦線においても企業が学生を選ぶ感じでした。門前払いの悔しさと、それでもいくつかの内定の嬉しさの中で、私は、開発の仕事を希望していました。この会社なら、製造と販売があり、自分が開発した食品を世に出せるかもしれないと思い、崎陽軒の門を叩いて、受け入れてもらえました。



君塚義郎

1960年、東京生まれ。
1983年、玉川大学を卒業後、崎陽軒に入社。
2005年 シウマイ点心事業部長に就任。
2006年 弁当事業部長に就任。
2010年 取締役に着任。
現在、取締役横浜事業本部長、
弁当事業部長、
開発本部R&D室長を兼任。



「企画、開発」は今でも学生に一定の人気がある職種だ。しかし会社は会社で、社会経験がゼロの新人に企画や開発なんぞさせられるわけがない。例に漏れず、君塚も、まずは製造ラインに配属されたという。

K: 現場好きなので(笑)、不満とかはありませんでした。何も知らない新人なので、まずはいろいろ教えて頂いて、吸収していかないと、仕事にならないことは分かっていましたから。一口に製造ラインと言っても、いろいろなセクションがあって、そこを何週間かごとに渡って、仕事を覚えていくという感じでした。


新入社員のうち、3割は入社3年以内に退社すると言われる。会社生活に馴染めない、職場の同僚に溶け込めない、過剰労働で心が病むなどが原因とされるが、君塚はそうはならなかったのだろうか。

K: うつ病? なりませんでしたね。小さな不満ですが、カレンダーが一般の人たちと違ったことは印象的でしたね。当時は国内レジャー全盛期で、連休には大学時代の友人たちとレジャーに行くわけです。でも私は、ゴールデン・ウィークの真ん中の1日だけ休みとか、それでも合流して、その1日だけ遊んで帰るとかでした。それでも精一杯楽しみました。そのうちに、サービス業に就いた人たちと連帯感が生まれたり(笑)。


時には苦い思いをしながらも、着実に社会人としての経験を重ねた君塚は、その後、崎陽軒の研究室(当時)に配属された。崎陽軒の工場の衛生管理や、レトルト食品の開発を請け負っていた部門だが、そこで君塚は予期せぬ大事に巻き込まれてゆく。