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■ 4月30日~6月29日にかけて、「日本のジャズ」を取り扱います







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編集余談

ちょっと前の話になるが、春の山で雪崩に巻き込まれて高校生7人と教員1人が亡くなる事故が栃木県で起きた。不運な、気の毒な事故だと言えばそれまでなんだけど、それにしたってこの事故を受けての被害者遺族の言い分や報道の在り方って、いささか危険なんじゃないかと思った。

高校生の遺族(の一部なんだろうけど)はこう言ったそうだ。「(亡くなられた)先生はベテランと聞いていたが、経験が長いだけで知識は持ち合わせていなかったのではないか。人災だと思っている」(産経新聞2017年3月30日)だと。おいおい、そりゃ言いがかりというか責任の拡大行為ってもんじゃないのか。

この遺族がどういう文脈でこう語ったかが定かではないので安易に断じることはできない。しかしどうあれ、これだけははっきりしている。安全な自然などない。海や川へ泳ぎに行って溺死する人が一定数いるように、「山に入る」ことは常に死と隣り合わせになることなのだ。その覚悟ができていない人は、そもそも山に入ってはいけない。自宅の部屋で、ゲームやスマフォにうつつを抜かしていればいい話だ。誰も強要はしない。

その点で、この遺族にはまず現実認識が希薄だったという過失があると思う。山に入れば、雪崩もあれば遭難もある。死ぬことだってある。そういうものだ。それが分かっていなかったのは、酷な言い方になるけど、保護者としての認識不足に過ぎない。

亡くなられた先生が雪崩を起こしたわけではないだろう。それを引率だからという理由だけで先生のせいにされては、たまったものではない。こんな暴論がまかり通るなら、修学旅行で自由行動中に生徒が現地の通り魔に刺殺されたりでもしたら、それも「監督不行届だ」と引率の先生の責任にされるだろうな。正気の人には「いや、通り魔のせいでしょ」と分かることなんだけど。

子供を失い、遺族の方には気の毒だと心底より思う。しかし被害者だからとて何を言っても良いというわけにはいくまい。第一、当事者として、先生だって亡くなられているのだから、死者に鞭うつような行為は遺族だからこそ慎まれるべきなのでは、と愚考する。誰かのせいにしなきゃやってられない、そんな情緒だけで先生の責任を問うのは、あまりに酷だ。

とは言え、日本には今のところ思想の自由がある。この遺族の人が、個人的に亡くなられた先生を恨むだけなら━━先生の遺族側に苦情や損害賠償を訴えたりしない限りは(先生の遺族だってつらいはずだ)━━それはその人の自由だと思う。

しかしこういう暴論「だけ」を拾い上げ、「遺族の心情」という一般性を持たせるマスコミはどうなんだろうな。どうもこの報道には、少しでも教師や教員に落ち度があればバッシングしちゃうよ~ん、読者だってそれを望んでいるんだからさ、ウヒヒ、という浅薄さが底流にある気がするのだけれど。まさかとは思うけど、産経新聞の記者自身、「絶対安全な登山」なんて妄想を信じているんじゃないですよね?


(三坂陽平)