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■ 2月28日~3月30日にかけて、「日本の伝記」を取り扱います







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編集余談

地下鉄サリン事件から今年で22年。たぶん多くの日本人にとって、3月といえば━━個人的には誕生月だけど━━東北大震災の月なのだろう。それは特にどうのこうのと言うことではないが、最近、地下鉄サリン事件はもう日本人の意識や記憶から消えているんじゃないかと思う。私見では、あの事件の本質は未だに私たちの社会にあるのだけど。

1995年3月20日、月曜日。いわゆるブルー・マンデーの香りを携えて、東京の地下鉄(丸ノ内線、日比谷線、千代田線)は通常通り運行していた。多くの乗客や乗務員にとって、それはごくいつも通りの営みだったはずだ。5人の「実行犯」とされる男たちが、それぞれに変装をして、サリンが入った袋と、それを突き刺すための傘を持って、電車に乗り込んでいたことを除けば。

私たちの社会の大部分は、あの凶行を「非人道的な宗教組織が行なった無差別テロ」と認識した。この際、その正否は措くとして、問題は、実行犯の5人は、果たして人の命など何とも思わない非人道的な悪鬼だったのかである。断っておくが、彼らのうち4人は死刑、1人は無期懲役が確定している。

実行犯に関する資料を読む限り、彼らは自主的に、あるいは否応なく、社会の歯車になることからドロップ・アウトしたエリート中年だった。ある実行犯は、受け持ちのサリンを撒く寸前、自分の傍にいた乗客に、降りてくれればいいのにと心の中で願っていたという。また最後に捕まった実行犯は、逃亡中もずっと自分が殺した人たちのための位牌を持っていたとされる。

憶測だが、彼らはそこまで「人の命など何とも思わない非人道的な悪鬼」ではなかったのではないか(もちろん、彼らの犯行を擁護するわけではない)。だとすればなぜ彼らは自己が持つ倫理や正義に反する形をとってまで、あの凶行に及んでしまったのか。それは彼らが属する組織の上層部の命令だったからであり、それに反すれば逃げ道はどこにもないと━━実際なかっただろうけど━━思っていたからではないかと推察される。

仮定であるが、あなたが、ある組織(会社なり団体なり)に属しているとする。ある日、「上」から命令が下りてくる。その内容を見て、あなたは「これはやっちゃまずいんじゃないか」と思う。倫理や道義からして承服され得ない内容だ。しかしあなたはその思考を停止させ、命令に従う。自分の責任じゃないし、こっちにも生活があるし、と思って。その時、あなたの精神は22年前に至り、地下鉄サリン事件の実行犯と同化してしまうのではないか━━。

東芝の粉飾決算問題も、三井住友建設の杭打ち偽装も、本質は「これ」と一緒なんじゃないかと思っている。少なくとも、命令する人と、それに従った人がいたという構図は同じだ。よって先の通り、「あの事件の本質は未だに私たちの社会にある」と言わざるをえないのである。地下鉄サリン事件とは、私たちの社会の「おかしい部分」が最悪の形で顕在化した事件だったのかもしれない。


(三坂陽平)