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■ 3月31日から4月29日にかけて、時計をフィーチャーいたします。







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『ベスト・イヤー・オブ・マイ・ライフ』
オフ・コースの終わりのはじまり(陳腐に言えば)

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1983年、小田和正は深い葛藤と迷いの中にいた。深く濃い霧に包まれていた、と言ってもいい。当時、彼はオフ・コースというバンドを率いていた。バンドは1970年のデビュー以降、鳴かず飛ばずの時期が長く続いたけれど、数年前に見事にブレイクし、立派にポピュラリティを獲得していた。彼はメイン・ソングライターであり、バンドの顔でもあった。にもかかわらず━━だ。それは評価や収入、あるいは自身の創作に端を発した問題ではなく、ある意味では個人的な方針の問題であった。バンド・メンバーの鈴木康博が正式に脱退したのだ。

脱退の理由は「オフ・コース以外の音楽もやりたい」というものであり、脱退自体は致し方がなかった。本人の問題であり、余人がどうこう言うことではない。少なくとも小田は鈴木の思案と意向を(最終的には)尊重できた。だからこそ鈴木は脱退したのだ。


『The Best Year of My Life』
1984年6月21日発売

FUN HOUSE

1. 恋びとたちのように
2. 夏の日
3. 僕等の世界に
4. 君が、嘘を、ついた
5. 緑の日々
6. 愛を切り裂いて
7. 愛よりも
8. 気をつけて
9. ふたりで生きている


青い下線は執筆者推薦曲を表しています。

作詞:小田和正、大間仁世・松尾一彦
作曲:小田和正、松尾一彦
編曲:オフコース
プロデュース:オフコース
オフ・コースは、もともと小田や鈴木が高校時代にノリで結成したフォーク・グループだった。それがキャリアを重ねるうちに「バンド」になり、幾度かのメンバー・チェンジを経て、なんとかブレイクも果たした。けれどその頃には、結成当初からのメンバーは小田と鈴木だけになっていた。彼らがいる限り、どんなに内実が変質しても、オフ・コースの体裁は最低限保たれたわけだ。

もちろん、いつまでも「同じ」ものなんてこの世にはない。オフ・コースとて例外ではなく、変わってゆくものなのだ。それはそれでいい。しかし2人が中心になるということは、こうも言える。小田と鈴木の関係性やそのバランスが大きく変わったり崩れたりすれば、オフ・コースの骨格、オフ・コースというバンドの構造自体もまた大きく変わり、大きく崩れることになるのだと。

ブレイクした頃、つまり1980年前後には、小田はオフ・コースの顔になっていた。言うなれば小田ありき。だからこそ売れた。ただの「バンド」よりも「小田と愉快な仲間たち」の方が民衆にアピールしやすかったのだ。もっともそれは分かりやすさを求める聴衆にはありがたかったものの、鈴木にしてみれば面白くはない。別に脚光を浴びたいとかではなく、単純に音楽性が狭まってしまうから。アメリカン・ポップスが大好きだった鈴木にしてみれば、小田の路線「ばかり」を演らなくちゃいけないというのは、正直面白みに(あるいはカラフルさに)欠けた。じゃあもういいじゃん、辞めちまおう。そうなったのは極めて自然なことだった。

深い葛藤と霧の中、残された小田はこう考えたのではなかろうか。鈴木がいないんなら、俺だってオフ・コースはもうやめたい。やる意味がない。でも現存するメンバー、周囲のスタッフや会社のこと、はたまたイベンターたちへのメンツを思えば、ここで解散したり俺が脱退したりするというのは無責任極まりないし、後味が悪い。ならば残されたメンバーで、解散に向けて、解散した後のそれぞれの活動に向けて、試行錯誤をしていこう。

明けて1984年、鈴木を欠いたオフ・コースは、バンドとしては11枚目のオリジナル・アルバム『ベスト・イヤー・オブ・マイ・ライフ』を発表した。タイトルには「これまでよりも良い年になるように」との願いが込められていたという。

当時、オフ・コースは人気者であり、アルバムは当然のようにオリコン1位を獲得、また同チャートにて同年度年間17位にもランク・インを果たした。しかし商業的な結果がどうであれ、このアルバムでオフ・コースが見据えていたのは、確実に来る「自分たちの終わり」であり「終わった後の自分たち」であった。1986年、小田はソロ歌手としてもデビューを果たし、1989年、オフ・コースは解散に至る。


オフコース | OFF COURSE - UNIVERSAL MUSIC JAPAN





 

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