表題にある「花園天皇」とは、鎌倉時代末期に十年ほど天皇を務めた第九十五代天皇である。そう言われても、大方の人はピンとこないはずである。現代の日本人の多くにとって、この人は「誰?」という存在だろう。かくいう私も、花園天皇について特段の知識はないし、面識も(当然)ない。
花園天皇の後に天皇の座に就いた後醍醐天皇は、鎌倉幕府を倒幕して「建武の新政」を敷いた。それで後醍醐天皇が有名な分、前代の花園天皇は影の薄さが際立つ。そういう点で、この人は間違いなくマイナーである。しかし彼の似絵(鎌倉時代に確立された肖像画みたいなもの)は、れっきとした「国宝」なのである。
そりゃマイナーかもしれないけど、一応天皇なんだから、その肖像画が国宝に指定されてもおかしくはないだろう。そう思うかもしれない。でも実際にその絵を見ると、思わず首を傾げてしまわないだろうか。えっ、これが国宝なんですか? と。
紙本著色花園天皇像(部分)
出典:Emperor Hanazono detail.jpg
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どうだろう? 一三三八年に藤原豪信が描いたこの絵は、下手かというとそんなことはない。むしろ上手いと思う。しかし見る人を大なり小なり当惑させる要素がこの絵には確かにある。中には無遠慮に「こんな顔でいいんですか?」と訝る人もいるだろう。そういう困惑は当時の人にも少なからずあったはずである。しかしモデルである花園天皇ご本人は、この絵を「よく描けている」と称揚された。この似絵には花園天皇宸筆の賛辞が添えられているから、それは間違いない。そして、だからこの絵は「国宝」に相応しいのだと思う。
「なんのこっちゃ」と思われるかもしれない。詳しく話していこう。
そもそもなぜこの人は、坊主として描かれているのか。彼は一三一八年に譲位して上皇になり、三五年に出家して法皇になった。だから、この絵が成立した一三三八年時点で、彼は花園法皇であり坊主だったのである(ちなみに画家の豪信も出家して法印となっていた)。
と、ここで似絵と、作者である豪信について若干の説明を試みたい。
先述したように、似絵は鎌倉時代に確立された。その前は平安時代。それなりの身分の女は人前に姿を絶対に見せないし、男だって、格下の人間が格上の人の本名を呼ぶなどは言語道断。そういう個人情報保護にうるさい時代である。だから平安時代には、絵を描くとしても、モデルにどれだけ似ているかなどは問われない。むしろ本人にそっくりの絵を描かれたら、本人が困惑する。それが常識だった時代なのである。似顔絵など発展しようがない。その常識が覆るのは平安時代末期で、覆したのは誰かというと、この時期の「新しい文化」を語る際に必ず出てくる、後白河天皇である。
平氏一族に平滋子という女がいた。後白河天皇から寵愛され、のちに「建春門院」という院号を授かる彼女は、最勝光院という寺を建てる。今はもう焼けて残っていないこの寺院には、後白河天皇と建春門院が、多くの供を連れて高野詣でをした時の絵が、障子絵(襖絵)として飾られていたという。後白河天皇にしてみれば、「愛人とデートした際の記念写真」みたいな感じだったのかもしれない。この絵には、それまでにない特徴があった。描かれた貴族の顔が、いずれも本人そっくりに描かれていたのである。
それを目の当たりにした貴族の一人、九条兼実は大変驚き、同時に安堵する。ああ、自分は行列にお供しなかったけど、マジでラッキーだったな、と。九条兼実とは、源平合戦の際には穏健な保守派として鳴らし、のちに関白になり、後白河法皇亡き後は王朝政治を主導し、源頼朝に「征夷大将軍」という地位を授けた人である。それほどの人を驚かせるような常識やぶり。それが後白河天皇であり、人物そっくりの絵を描くという行為だったのである。
豪信の父・為信が描いた後白河院像(『天子摂関御影』より)
出典:Emperor Go-Shirakawa2.jpg
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後白河天皇はなぜそんな絵を描かせたのか? 詳しいことは分からない。しかし彼が誰にその絵を描かせたかは分かっている。絵全体は、当時の高名な絵師である常盤光長が描き、居並ぶ貴族の顔は、中流貴族の藤原隆信が担った。そう伝わっている。この隆信の五代後の子孫が藤原豪信である。隆信から豪信に続く家系は、豪信の父親の為信も含めて、似絵の名手揃いだったのであろう。この『花園天皇像』に添えられた文章には、わざわざ「法印豪信は亡くなった為信卿の息子だ」という注釈がある。
時の法皇の肖像画を任されるくらいだから、豪信の腕は疑うに及ばない。ではなぜこの絵は、見る人を当惑させるのか? そして、なぜこの絵が国宝に相応しいのか?
世の中には二種類の人間がいる。肖像画のモデルに相応しい顔を持った人と、そうじゃない人である。では「そうじゃない人」は、自分の似顔絵を描かれた際にどうするだろう? 多くの場合、画家に対して修正を試みるはずである。う~ん、あのさ、ここんトコ、もうちょっとどうにかならんか、とか言って。そういう人が多いからこそ、現代ではAI(人工知能)による写真修正なども当たり前になっているのだろう。
花園天皇は権力者である。画家に対し、いくらでも美化や修正を強いることができた。にもかかわらず、彼は自らのありのままを描かせ、それを受け容れ、画家の腕を称揚するまでもした。添えられた文章には「私の陋質がよく描けている」とある。この「陋」は「いやしい、みにくい」などの意であるから、謙遜にしては度がきつい。画家への皮肉と見る向きもあろうが、権力者が格下の者に対し、そんな回りくどい当てこすりをする必要もない。これはストレートに、自分をよく描けたことへの率直な賛辞なのだと、私は思う。
紙本著色花園天皇像(国宝)
出典:Portrait of Emperor Hanazono.jpg
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これでいいの? この絵を見る人の多くはそう訝るだろう。しかし花園天皇は「これでいいのだ」と太鼓判を押された。よほどの胆力と雅量がなければできないことであろう。素晴らしい人だと思う。
「これでいいの?」という当惑は、画家の豪信にもあったはずである。法皇はこういうお顔をされているが、しかしそれをストレートに描いてよろしいものか━━と。画家に迷いがあれば、それが必ず絵のあちこちに出て、下手な絵になる。しかし出来上がった絵はそうではない。つまり豪信もまた「これでいいのだ」と肚を決めて、この似絵を描いたのである。それはモデルである法皇のご宏量を信じていればこそ、出来たことだろう。
花園天皇は豪信の腕を信じていた。だから自分の似絵を描かせた。一方の豪信も、花園天皇を信じていた。だからこそ、そっくりに描くことができた。この似絵は、そういう二人の男の物語を孕んでいるのではなかろうか。私は彼らのありようを潔くて美しいと思うし、それゆえにこの絵が国宝であって当然だと思うのである。