日本とヨーロッパ、それぞれの美術史を比較すると、いろいろと違う点があることがわかります。その差異の一つが彫像の多寡です。ヨーロッパでは、オーギュスト・ロダンの「考える人」を筆頭に、美術史にその名をしっかりと残す彫像が数多くあります。翻って、日本の美術史ではどうか? 絵画はともかく彫像となると、なかなかないと思います。もちろん、運慶の作品のように美術史に刻まれた彫像があることはある。決して日本が彫像に関して不毛の地だというわけではない。ただ、作品数ではヨーロッパと比すべくもないことは事実だと思います。
定朝(じょうちょう)という人が彫った仏像は、その数少ない「日本美術史に刻まれた彫像」の一つでありましょう。定朝とは11世紀の日本、つまり平安時代に活躍した仏師です。彼はいくつもの仏像を彫ったと言われていますが、その大半は歴史の絶え間ない流れの中で失われてしまいました。現存するのは京都の平等院の本尊にある阿弥陀如来坐像ただ一点のみだそうです。
そうなると、定朝を語ることは、平等院の阿弥陀如来坐像について語ることになります。
平等院の阿弥陀如来坐像
(国宝)
出典:Byodoin Amitaabha Buddha.JPG
from the Japanese Wikipedia
(2008年4月24日)
阿弥陀如来坐像を見ると、なんだかわからないうちに納得してしまいます。うむ、仏像らしい仏像だ。そう思うはずです。おそらく多くの日本人が「仏像」と聞いて頭の中でイメージする仏像は、こういう仏像ではないでしょうか。
それがどうしたと言われるかも知れませんが、時系列で見るとこの仏像の特異は際立ってきます。
平安時代は国風文化の時代です。それまでの日本の文化には、当時の先進国であった中国や朝鮮の影響が色濃くありました。当時の日本は文化的後進国で、それが当たり前だったんです。ところが平安時代の段に至り、日本は模倣するだけのステージを卒業します。そして、日本独自の様式があちこちに見られるようになった。それを「国風文化」と言います。ちなみに、中国や朝鮮の影響が色濃かった頃の文化は「唐風文化」と呼ばれています。唐とは当時の中国のことですね。
定朝の仏像は、国風文化の仏像と言っていいでしょう。当然、その前段階には唐風文化の仏像もある。仏像は、仏教(という宗教)ありきのもので、仏教はもともとインドで発生し、それが中国を経由して日本に伝来したと言われています。They say it was in India. 仏像は元来、舶来の文化の一種ですから、唐風文化の仏像があるのは当たり前なのです。
では唐風文化の仏像とはどんなものでしょうか。聖徳太子ゆかりの寺、奈良の法隆寺の釈迦三尊像を見ると分かりやすいかも知れません(法隆寺の釈迦三尊像は7世紀につくられたと言われています)。
法隆寺の釈迦三尊像
(国宝)
出典:Shakyamuni Triad Horyuji2.JPG
from the Japanese Wikipedia
(2009年12月6日)
一目瞭然、面長です。なんだか日本の仏像というよりアジアの仏像という気がします。そんな気がしませんか? 実際、当時の中国や朝鮮(アジアの国々)の影響をディープに受けてつくられたものでしょうから、これをアジアの仏像と言っても、そうそう的外れではないと思います。
7世紀には、日本で仏像といえば「アジアの仏像」だった。しかし、時代が下り、仏教が日本に馴染んでくるにつれ、仏像もまたその形を日本風なものに変えていった。定朝の仏像はその「日本風の仏像」の完成形なのだと思います。なにしろ定朝の後継の仏師達は、定朝の作風を律儀に受け継ぎ、やがて定朝の作風は「定朝様式」と呼ばれる様式にまでなったと言います。定朝の仏像は、茶道で言う千利休みたいな存在なのかも知れません。
英語に「ウォーター・アンダー・ザ・ブリッジ」というクリシェがあります。直訳すれば橋の下の水ですが、意味するところは「過ぎ去ったもの」や「取り返しのつかないこと」です。定朝がつくった仏像は、ほとんどが橋の下を水となって流れ去り、平等院の阿弥陀如来坐像を残すのみと先述しました。でも、定朝のスタイルは定朝様式となって、今も流れずに残っているのです。
定朝は、同じく仏師であった父親から「調和を大切にして仏像を彫れ」と箴言されたそうです。それは、日本という風土に合った仏像をつくれ、という意味をも含んでいると解釈できなくもありません。もちろん拡大解釈です。でも、結果として定朝は日本の仏像のスタンダードを築いたわけですから。