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■ 9月30日から10月30日にかけて、「郷土料理」をフィーチャーします。







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運慶の彫像
「移行期的混乱」のホワイト・マジック

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安定した時代には人々は身体性を忌み嫌う。逆に動乱、混乱の時代には身体性が前面に出てくる。養老孟司はそう説いた。日本の歴史で安定性があった時代といえば平安時代と江戸時代、そして戦後の現代であろう。もちろん、それらの時代に問題がなかったわけではない。それでも、その前後の時代と比して、人々の生活や町の秩序は総じて安定しており、そこでは身体を隠す十二単(平安時代)や、ヒゲを生やすのはご法度(江戸時代)などのように、「人間の身体性を表に出さない」文化が生じた。現代でも同様に、人々は習慣的に体毛を剃ったり、加齢によるシワやたるみを隠したりする。

運慶(?-1223)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した仏師である。つまり「身体性を隠すことがベストとされた時代」から「身体性を前面に出すようになった時代」にかけての人物。だからか、運慶の作風は「リアルな肉体を追求したもの」と言われる。一昔前に活躍した仏師、定朝の作風(定朝様式)と比べて、運慶作の彫像は肉体性が前面に出ていると。

そうなん?



円成寺にある運慶作・大日如来坐像
(国宝/1176年完成)
出典:Seated Dainichi Nyorai.jpg
from the Japanese Wikipedia
(2017年9月22日)

なんとなくではあるが、運慶は肉体性を追求したというより、肉体性もコミで「人間」を彫ろうとしたのではないかという気がする。

そのくらい運慶の作品には「人間」を感じる。たとえそこにわかりやすい表情がなくとも、名状し難い感情が伝わってくる。そういう気がする。この手の趣味は定朝の作風にはなかったものだと思う(現時点で確かに定朝の作品とされるのは一点のみなので、それを以て「定朝の作風」として良いのか、ちょっとわからない所ではあるが)。



興福寺北円堂にある運慶作・無著像
(国宝/1212年完成)
出典:Kofukuji Hokuendo Muchaku Unkei.jpg
from the Japanese Wikipedia
(2012年3月30日)

当時の仏師は、貴族をパトロンとして高名な寺院に仕える準公務員みたいな身分であり、運慶は、奈良の興福寺を拠点に活動していた奈良仏師の子であると伝えられる。それは、中世ヨーロッパでいう王族に抱えられた芸術家みたいなものであったろう。運慶も当時の上流階級と(それなりに)緊密な関係を築いていたのではなかろうか。その彼がつくった彫像が、肉体性を含む「人間」であったというのは、結構シンボリックだと思う。

平安時代末期とはどういう時期か。後世から「平安」と言われるほど安定性を誇った時代にピリオドを打つことになる、そういう時期である。つまり、そこには「混沌の始まり」とも言える空気が漂っていた。当時の政治は、天皇家や藤原家を筆頭とする貴族(朝廷)が主体となって行なっていたが、彼らはやれ「院政」だ「摂関政治」だと政争に明け暮れていた。貴族は自分達の欲望しか問題にせず、庶民や武家(当時の下級役人)のことは蔑ろにされ続けた。一見「平安」であっても、政府の実状は堕落し、腐り切っていた。それが当時で、なんだか現代と変わらない気もする。

そこで武家の人達は(当然ながら)下剋上の声を挙げる━━「もう中央の貴族なんかに政治を任しちゃおけねぇ。俺らで新しい政府を作って、俺らは俺らでやっていこうぜ」である。かくして武家の一派である源氏の源頼朝が、伊豆の豪族、北条氏の助力を得て、朝廷に替わる新しい政治主体を1192年に開いた。それが「幕府」である。そしてこの幕府(鎌倉幕府)の成立を以て平安時代は終わった(ただし、武家や庶民に愛想を尽かされても朝廷は形だけのものとして細々と残り続けた━━だから21世紀の今でも天皇家は存在する)。

平安時代末期から鎌倉時代初期にかけては、政治の主体が「血統しか取り得のない貴族エリート」から「力にものを言わせるヤクザの親分」に移行する混乱の時期である。運慶は、そんな時代に生を受け、感受性を涵養し、仏師として活躍し、やがて他界した。上述のように、運慶は当時の上流階級と懇ろだったはずだが、当時の上流階級は没落まっしぐらで、自らの欲望だけを問題にする彼らは、ホモからマザコン、好色、妄想癖まで、さまざまに「人間」の様相を平然と呈していた━━だからこそ没落したのであり、それは「混沌の始まり」でもありえた。



興福寺北円堂にある運慶作・世親像
(国宝/1212年完成)
出典:Seshin (detail, 2).jpg
from the Japanese Wikipedia
(2017年9月23日)

運慶が当時の人達に見たのは、形式や見栄、体裁を排した、紛れもない生身の「人間」だったのではないか。だから、彼の作品には「人間」がどうしようもなく宿っている。そういうことはあるかもしれないと思う。もしかすると運慶の作品は、「移行期的混乱」(@平川克美)があってこその美術なのかもしれないなと。事実、鎌倉時代より後になると、日本の美術史に残るような彫像はほぼないという。






 

定朝の仏像
橋の下を流れなかった水