お笑い芸人・ビートたけしが詩集『僕は馬鹿になった。』を発表したのは、自身のご母堂であるさきさんが亡くなられた翌年のこと、2000年・53歳の時でした。
「人間50年」などと、人生はおよそ半世紀程度のものといわれたのは、そう遠くない昔のこと。その目安で言えば人生を1度巡ったことになるビートたけしが、これまでの自分を「一旦、整理する」意味合いもあったのではないか。この詩集を読むと、そう思わされてしまいます。「デート」や「父」、「鬱病」などの詩は、まさしくそうでしょう。
芸人・タレント稼業を揶揄する詩も多く見られますから、『僕は馬鹿になった。』というタイトルには、映画監督として脚光を浴び、テレビでも芸人というより頭脳派のタレントとしてもてはやされるようになった、当時の自身の現状へのアンチテーゼも込められているのでしょう。この詩集においても、肩書きは北野武ではなく「ビートたけし」になっています。つまり、この詩は「お笑い芸人としてのたけし」によるものということです。
寄稿として、さくらももこが「本当はやさしくて正直で真剣に生きている」と、ビートたけしについて述べています。確かに、そういった要素もビートたけしの一面には違いないでしょう。もっと突っ込んで言えば、恐らく大多数の人は、詩にそういう「実は良い人」という善性を期待するのではないでしょうか。
しかしながら、少なくともビートたけしというお笑い芸人がこの詩集に込めた主成分は、かような善性のモノではない、と受け取れるのです。もっと鋭利で、もっと危険性があって、もっとサブカル臭がして、生身の人間を感じさせて読者を誘惑するもの。そう、この詩集の主成分は、エンターテイメントの最重要要素、「毒」なのではないか、と。
例えば優しいだけの男では物足りないように、従順なだけの女ではつまらないように、適量の「毒」は人間関係において、魅惑的なスパイスとして機能します。それは、「詩の詠み手と読者」の関係においても同様です。
ビートたけしが「真夜中の独り言」として繰り出した詩たちをどう受け取るかは、読者の裁量に委ねられて然るべきです。ただ、日本の詩の多くはナイーヴさやヒューマニズムに裏付けされたものが多い中、ビートたけしの詩は、その主成分に「毒」を感じさせます。そこに「ビッグ3」と称されるほどにエンターテイメントを突き詰めて頂点にのぼりつめたお笑い芸人・ビートたけしの「技と精神」を、まざまざと見せられた思いがするのです。