みなさん、こんにちは。本日はエッセイスト、阿川佐和子の『強父論』(文藝春秋)について。
ご存知の通り、阿川佐和子の父は作家の阿川弘之である。彼が2015年に他界し、翌年、娘の佐和子が亡き父に関する随筆を上梓した。それが『強父論』である。
読んでみると、阿川家の、娘と父親の間にあったエピソードが累々とある。こう書くと、家族の絆とか心温まる系の話かと思われるかも知れない。それはその読み手が「家族神話」とでもいうような理想を暗に求めているからであろう。
もちろん、そんなことはない。
阿川佐和子いわく、もともとのタイトル候補は「恐父論」であった。それくらい、子供から見ると「恐い」父親像が、そこには描かれている。はっきり言って、暴君である。
具体的なところは実際にご通覧頂くとして、私が非常に興味深く思ったエピソードをひとつ。
ある日、阿川弘之が自身の原稿を、佐和子たち家族の前で声を出して読み上げた。それで感想を訊ねたという。どう答えていいものか。やがて弘之の妻(佐和子の母)が「いいんじゃないですか?」と応じ、弘之は「そうか。まあ、いいとするか」と言ったという。(同掲書、177~178頁)
ああ、やはりプロの文筆家いうのは、自分の文章にどれほどの身体性があるかを気にするもんなんやな。そう思った。かくいう私は、阿川親子の著作を何一つ読んだことはないのだが。
文章における身体性とは、太宰治の『
如是我聞』の項で触れたようなことである。身体と文章には密接な関係がある。ベストセラーになった『声に出して読みたい日本語』(草思社)の著者、齋藤孝が身体論の人であるように。また、村上春樹が「肉体が変われば文体が変わる」と言ったように。
阿川佐和子自身がそのことをどう捉えているのかは、『強父論』を徴する限りでは判らないが、弘之はエクリチュールにおける身体性の重要さを間違いなく自覚していたのであろう。たぶん。