前回は川上和人という農学者のエッセイ『鳥類学者だからって、鳥が好きだと思うなよ。』を取り上げた。今回はその姉妹編と申し上げていいだろう。今回のお題は動物言語学者、鈴木俊貴が今年(二〇二五)序盤に上梓した『僕には鳥の言葉がわかる』である。なんだ、また鳥かよと食傷する向きもあろうが、その通り。また鳥にまつわるエッセイである。
「動物言語学者ってなんだ?」と訝る方もいると思う。言葉を使えるのは人間だけだろう。いや、他の動物もたしかにコミュニケーションを取ることはあるだろうが、そこで用いられるツールは言語ではなく、鳴き声や視線など、ノンヴァーバル(非言語)なものではないか? そう考えるのが一般的だと思う。だが著者によると、人間以外の動物も言語を使ってコミュニケートしているのだという。著者はシジュウカラという鳥に没頭し、やがて彼らの鳴き声に固有のパターン、つまり「文法」があることを突き止めた。動物言語学とは、著者が独自に創設した新しいジャンルの学問である。
つまり著者は無類のシジュウカラ好きなのであり、本書はその「シジュウカラ愛」をふんだんに盛り込んだエッセイということになる。中に描かれている鳥のイラストは、すべて著者の手によるもの。本書は著者の初の単著だというから、惜しみなく注力したのであろうことが伝わってくる。発行は小学館。著者は二〇二三年に、霊長類学者として高名な山極寿一との共著『動物たちは何をしゃべっているのか?』を集英社から出していたから、おそらくはその繋がりなのだろう(小学館は集英社の筆頭株主にあたる)。
厳しい寒風が列島各地に吹き荒れていた二〇二五年一月、本書は出版された。そのリリース自体は、大多数の人には認識すらされない些事であったかもしれない。しかしどうあれ本書はちょっとしたつむじ風を起こす。十万部超を刷るベストセラーになったのである。今(同年八月)でもアマゾンの動植物カテゴリー内で本書は「ベストセラー」の座を占めている。
一九八三年十月、東京都内で著者は生まれた。カルチャー・クラブ、フリオ・イグレシアス、中森明菜などの歌声がスピーカーから流れていた時代である。まったくの私事だが、数ヶ月後の八四年三月に私は大阪で生を受けた。つまり著者と私は同学年なのだが、逆から言うと、それ以外の共通点はこれといってない。学生時代に著者と何かのはずみで出合っていたとしても、きっとお互いほとんど接点を持たずに過ごしただろう。私は体力と欲情の赴くまま女に溺れていた(と言っていいと思う)し、著者は毎週末、野鳥観察に明け暮れていたらしいから。まぁ時を経てお互い四十男になった今では、「瘦せ型でメガネをかけている」というルックスがささやかな共通点になるかと思うが。
前出の川上は団塊ジュニア世代の学者で、著者はそのほとんど一回り下の世代に属するが、川上と著者とでは明白に違うと思う人もいるだろう。川上が自著の表題通り「鳥類学者ではあるけど、だからって鳥が好きなわけじゃない」という人であるのに対し、著者は鳥好きの学者なんだよな、と。
でもこれは正確ではないと思う。
本書に徴するに、著者はシジュウカラが好きで現在の研究職に就いたわけではない。どちらかというと、研究職に就きたいという欲求が先にあり、さぁ何を研究対象にしてどういう切り口で研究しようかと思案し、その道程でシジュウカラに出合い、彼らの生態に没入した。つまり社会システムへの適応がまず優先事項としてあり、適応の過程で偏愛と没入が生じたのである。「この相手が好きだから付き合って結婚した」ではなく、まず結婚願望があり、そのために相手を探して、出合った相手に惚れ込んだ━━というような。
現代の若年層(だけではないかもしれないが)は、マッチングアプリで恋愛や結婚の相手を求めることにあまり抵抗がないと仄聞する。つまり恋愛や結婚とという既存のシステムへの適応が第一で、相手への感情は二の次。そういう人が多い時代に著者のような人のエッセイが売れるのは、ある意味、時宜を得ていると思う。私は個人的には、「好きな人がいないなら、別に無理矢理相手を探してまで恋愛や結婚なんてせんでもええんちゃう?」と思うけれども。
といって、私はそういうあり方を否定するでもない。仕事というのは、やる気があってするものではなく、やっているうちになんとなくやる気(みたいなもの)が出てくるものである。つまりまず動機や意欲があって行動が生じるのではなく、行動しているうちに動機や意欲(みたいなもの)が生じる。「行動が思想を規定する」というか。そういうことはあると経験上分かるので、著者やマッチングアプリ・ユーザーのあり方を難じようとは思わないのである。
ただ、私や著者の同学年には、研究職という社会システムへの適応を第一義にしたあまり道を踏み外した(としか思えない)先行例が存在する。二〇一四年に「STAP細胞」の件で一躍有名になった小保方晴子である。彼女の事例があった手前、私は著者のあり方についても、盲目的に称揚や楽観視はできないというか、どこか曇った気持ちを拭えないのだと思う。まぁ気を付けて行こうな、ご同輩。僭越ながらそう思ってしまうのだが、それが正直なところだから仕方ない。