村田沙耶香は一九七九年八月、千葉県で生まれた小説家である。彼女が生まれる前年の一九七八年十一月には、南米のガイアナで新興宗教団体「人民寺院」の信者九百人超が集団自殺をした、あるいはさせられたという凄惨極まりない事件があった。彼女が身籠られた時分にそういうことが起きたからかどうかは知らないが、彼女が執筆作業の中で好きなのは、「殺人シーンを書くこと」であるという。
そういう嗜好をここでどうこう評するつもりはない。しかし彼女の代表作は、奇しくも「殺人」がメイン・テーマではない作品になったのだなと、不思議な気持ちになったりもする。二〇一六年夏に文藝春秋から上梓され、同年の芥川賞も受賞した『コンビニ人間』のことである。
本作はおそらく彼女の作品群の中で最も知られた小説である。本が刊行された二〇一六年の間に五十万部以上が刷られるほどの大ヒット。その勢いは国内にとどまらず、二〇一八年には英米で英訳版が出版されるに至った。同年末には米ニューヨーカー誌のベスト・ブックスの一冊にも選ばれ、今では数十の言語に翻訳されて世界中に流通している。同二〇一八年、国内では文庫版がリリースされた。
文藝春秋社主宰の芥川賞は純文学系の優れた(と目される)小説に与えられる賞で、純文学というのは「人はいかに生くるべきか」みたいなテーマをメインに据えた小説のことだから、世間には「芥川賞の作品は面白くない」と評する向きが多かったりもするのだが、本書は多くの人が面白いと思ったのだろう。でなければ世界的な大ヒットとはならないはずである(まず各言語に翻訳してくれる人が現れないだろう)。
本書の舞台は表題通り、コンビニエンス・ストアである。そこでアルバイトとして働く三十六歳の女性が主人公。これだけ見れば、極めてありきたりな舞台とキャラクターである。「なるほど、子持ちの主婦かキャリアウーマン崩れの女がコンビニで働いてんだな」と思う人もおられよう。この一見凡庸な設定を起点に物語は進んでいく。
実は彼女は未婚で、性愛を指向していないフシを見せる。なんというか、恋愛や結婚などはどうでもよくて、コンビニで働くこと自体が彼女の生きがいなのではないか。そう思わせる女として彼女は描写される。そんな彼女がちょっとした事情からクズ(と言っていいだろう)男と同居することになり、周囲はその様子を好意的に捉える。ああ、彼女にも世間並みなとこがあったんだなと。彼女はその状況に適応しようとはするが、どうにも上手く馴染めず、とうとう堪忍袋の緒が切れてこう言う。
「コンビニの『声』が聞こえるんです」
「(前略)コンビニ店員という動物である私にとっては、あなたはまったく必要ないんです」
そう告げ、彼女はクズ男との生活から離脱する。そしてどうなるのかは実際に読んで頂くとして、作者である村田自身、コンビニで働いた経験があるというから、ある程度は私小説的な側面もあるのかもしれない。彼女は二〇二〇年の対談でこう語っている。
「日本のコンビニはマニュアルがたくさんあるんです。だから、コンビニで働いているときはロボットになったかのような奇妙な快楽がありました。洗脳されている不思議な心地よさというんでしょうか」
(文藝春秋デジタル、2020年9月19日)
この物語がどの程度実体験に基づいているのか、そんなことは個人的にはどうでもいい。小説などというのは、読んで面白いかどうか、心に残るかどうか、それがすべてだと思う。それがどれくらい事実で、どれくらい虚構かなどは、読者にとってそんなに大きな意味は持たないはずである。
ただ、私が若干引っかかるのは、村田の発言や本作の主人公の言い回しから、どことなくカルト宗教の信者っぽい匂いが感じられること、そしてこの物語が世界中で愛読されていることである。
先述の人民寺院、創価学会、旧統一教会、そしてオウム真理教など、二十世紀は「新興宗教の暴走」が目立った世紀でもあった。では今現在、二十一世紀はどうなのかというと、カルト宗教の脅威が去ったわけではない。私見を言わせてもらえば、カルト宗教が乱立し、社会現象を次々に惹き起こした二十世紀を踏まえて成り立つ二十一世紀とは、「カルト宗教の信者のエートス」を内面化した人が増えた時代ではないかと思っている。
二十世紀においては、新興宗教にはまるなどは世間に適応できない変わり者がすることだった。実際、人民寺院は当時の社会のあり方に異を唱える人の集団でもあったのである。そのかつての「変わり者」がある程度のマジョリティー(多数派)を形成するようになった。現代とはそういう時代で、だからこそ本書は世界中で愛読されているのではないか。
もちろん社会にうまく適応できない人はいつの時代にもいる。問題は、社会がそういうミスフィットを何らかの形で受け容れないと、彼らは閉鎖的になり、やがて社会と衝突する可能性があるということである。本書が世界的にヒットして間もなく二〇二〇年代になったが、そこで世界は(ご承知のように)「第三次世界大戦」と呼んでおかしくない混沌を迎えている。こうなった理由はいろいろあるのだが、その一つは間違いなく「旧来の社会に異を唱える人達を、社会が容認しないから」であろう。
社会に対して唱えられた異論を、社会はうまく汲み取れるのか? 本書とその大ヒットが問うのは、そこなのだと思う。