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『大地の咆哮』
ある外務省官僚のスワン・ソング

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杉本信行? 誰だそれ、そんな人知らないぞ。そう言う人が大多数だと思う。まぁそれも無理はない。杉本は作家ではなく、上海総領事を務めた外務省官僚だからである。官僚の名前をいちいち把握している人なんて、そりゃ稀であろう。

2004年5月、上海日本総領事館の館員が自殺した。その館員は、中国の公安当局から、外交機密に関する情報提供を強要されており、度重なる恫喝や脅迫を受け、ひどく苦しみ、その挙げ句に自ら命を絶った。どうもそういうことらしい。真に痛ましい事件である。著者の杉本は当時の上海総領事であり、自殺した館員の上司であった。もっとも、この件に関しては、本書ではほとんど(全くと言っていいほど)触れられていない。おそらく公務員として、官僚として、公に「書けない」事情が絡んでいたのであろう。

けれど上司として無念はどうしても残る。加えて、杉本自身、末期癌であることが判明した。もう長くないかもしれない。彼は総領事の職を辞し、抗癌剤を用いた闘病生活の傍ら、本書の執筆に邁進した。本書は、杉本が外務省職員として、いかに中国と関わってきたかを記したものである。杉本が外交官として関わってきたのは、中国の政府から地方役人、村民に至るまで多岐にわたる。その経験がテーマ別に、つぶさに語られる。本書は2006年6月、PHP研究所より刊行された。副題は「元上海総領事が見た中国」である。同年8月、杉本は闘病の末、息をひきとった。享年57歳。

慶応大の医学部放射線科出身の医師、近藤誠はこう言う。『患者よ、がんと闘うな』(文春文庫)と。しかし、今更そんなことを言っても詮が無い。死者は帰らない。けれど杉本が残した叙述はまだ生きている。

中国は日本の「おとなりさん」である。それなら、鎖国制度を敷かない限り、日本はどうあれ中国とお付き合いしていかねばならない。ならば中国とはどういう国なのか、どういう原理原則で運営されてきたのか、中国政府、国民はどういった制度下にあるのか、それらをできるだけ的確に把握することがまずは肝要であろう。当今のグローバル社会においては、商用や観光、留学等で中国を訪れる日本人も多いはずである。

杉本の手による本書は、そういったときの一助に必ずや、なる。本書の解説を担当した岡本行夫(国際問題アドバイザー)は、「この本は現在の中国を分析するものとして世界中で書かれた多くの著作のうちでも屈指のものだと思う」と語った。まさしく、杉本の、日本国民に対する最後の「ご奉公」なのだと思う。もちろん、本書の内容に関しては不足や至らない点はあるだろう。著者がどうであれ、読み手が求めるものは、実にさまざまだからである。それでも、こうした「人生を懸けて叙された」本というのは、それだけで(内容とは)独立した価値を孕んでいるはずである。

白鳥は死ぬ間際に最も美しく鳴くという。それを英語で「スワン・ソング」という。その一鳴きを取り上げて、「ううん、この高音部分がちょっと」「全体的には良いんですけど、最初のトーンがやや不安定ですね」などと、いちいち評するのは、私に言わせれば野暮である。

作品情報

・著者:杉本信行
・発行:PHP研究所






 

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