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『ドラゴン・ボール』
その人気と達成の裏側を考える

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漫画家の鳥山明が一九八四年の暮れから一九九五年の夏まで『週刊少年ジャンプ』誌上で連載を続けたこの漫画は、既に多くの論客が指摘してきたように、大まかに言えば二部構成になっている。主人公の野生少年=孫悟空が、一人旅をしている少女=ブルマと森の中で出合い、世界中に散らばった「ドラゴン・ボール」という秘宝を、彼女と一緒に探すアドヴェンチャー。これが第一部である。第二部はバトル・トーナメント「天下一武道会」を境にして、全宇宙を舞台に繰り広げられるバトル・アクション編。

本作の人気は今更言うまでもないだろう。単行本の累計発行部数は国内だけで一億六千万部以上。八〇~九〇年代を少年として過ごした人の家には、多くの場合、本作のコミックスが(全巻揃っていなくとも)転がっていたと思う。そういう人気作だから、当然のようにテレビアニメ化もされ、世界八〇ヵ国以上で放映された。連載が終わってもなお、アニメ作品は断続的に発表され続け、堅実なヒットを記録してきたという。確かに、本作を「昭和」と言ってバカにする向きは、少なくとも私は見たことがない。

思い返すに、本作の終了はなんだか唐突だった。当時小学六年生だった私は、最終回が載った『週刊少年ジャンプ』を、行きつけの床屋で読んだ。読んでも感慨など特になく、ただ「これで終わりなんだ、ふうん」という感じだった。別に熱心な読者というわけでもなかったし、私自身、少年期の終わりに差し掛かる頃だったから(小学生にとって中学生になることは、子供から大人に一歩近づくという意味合いがあった)、いちいち少年漫画の最終回に感傷的になるなどはなかったのかもしれない。

が、世間では本作の終了は一大事だったようで、本作が終了した途端、掲載誌『週刊少年ジャンプ』はあからさまな部数減に陥り、二年後の一九九七年には『週刊少年マガジン』が『ジャンプ』を発行部数で上回るなども起こった。もちろん、当時の『マガジン』が『金田一少年の事件簿』や『GTO』など鉄板の人気作を擁していたことも大きかったとは思うが。

こうした破格的な人気を誇る本作のうち、主に人気があるのは第二部である。つまりバトル・アクション編。この段になると、悟空は「野生少年」から脱却して、ひたすら強さを希求する宇宙人(サイヤ人)になっている。

強い敵がひょっこりと現れる。その強大な力の前に悟空やその仲間(しばしば地球全体)は窮地に陥る。悟空一派はどうにかして敵を上回る強さを手にし、敵を倒す。しかしさらに強い敵が現れる。この「強さの大幅なインフレ」を伴う無限ループが、第二部の特徴である。こうなると冒険活劇どころではない。冒険の舞台となるべき世界(宇宙)は、超弩級の力を持つキャラクター(悟空を含む)によって、いともあっさり破壊されてしまう、脆弱極まりないものになっている。冒険に価するステージは事実上なくなったに等しいのである。

漫画は必ず絵を伴う。だから「地球を破壊するほどの力を持つキャラクター」を読者に提示するには、どうしたって「地球を壊すシーン」が不可欠になる。そんなの大丈夫か? と訝るには及ばない。上述の秘宝ドラゴン・ボールは、七つ揃えると神龍(シェンロン)が現れ、ランプの魔人よろしく、呼び出した者の願いをなんでも叶えてくれる(願いの数に制限はあるが)。だから死者を蘇らせることもできるし、地球が破壊されてもボールさえ無事に揃えばパッと元通りになる。リセット可能なのである。かくして悟空一派や敵は心おきなく破壊活動や闘いに没入できる。

本作の設定を並べてみると思い当たる。この漫画って、結局は「ゲーム」なんだよなと。言い換えると、人間ドラマではない。だからヒットしたのだろう。

キャラクターはどこまでも無限にパワーアップする。死んでも生き返る。舞台が消滅してもやり直せる。ステージをクリアするごとにさらに強い敵が現れる━━これはゲームそのものと言っていいだろう。だからか、キャラクター達の人間ドラマはほとんど描かれない。

たとえば主人公の悟空はチチと結婚し、子供をもうけるが、そういうシーンは全編カットで、いきなり息子の悟飯がいることになっている。フツーの漫画はそのカットされたドラマを描くが、本作は人間ドラマを極力排除し、バトル・アクションや修行シーンを専らに描く。会話劇はほとんど「解説」や「説明」か、話を前に進めるための最小限のものに留められている。ここの刈り込みは見事である。必要なことが必要なだけ描かれ、不必要なものはそうそうない。

かくして、このキャラクター達は変な陰影やコンプレックスや葛藤を持たず、闘いに明け暮れる。ややこしいことはどうでもいいから、とにかく暴れよう。大丈夫、ドラゴン・ボールがあれば、後でどうにかなる。それが『ドラゴン・ボール』第二部の基調だと思う。ドラマ性を必要最小限まで排して、ゲーム性を前面に出したというか。そして、このイージーさゆえに本作は世界中で親しまれたのではなかろうか。人間模様やら男女の営みやらの地味でややこしい話は好かないけれど、分かりやすい派手なドンパチが好きだという人は、世界中どこにでもいるだろうから。

本作が始まった八〇年代は、ファミコンやらPCエンジンやらマークⅢやらが乱立した、家庭用ゲーム機の黎明期である。鳥山自身、連載初期の一九八六年には、ゲーム「ドラゴン・クエスト」のキャラクター・デザインに乗り出している。鳥山がゲーマーだったかどうかは知らないが、彼を取り巻く当時の背景は、「本作にゲームの諸要素が盛り込まれてもおかしくない」と示唆するものであろう。

最後に個人的な話をする。本作終了からしばらく経った二〇〇三年、私は大学に通いながらコンビニでアルバイトをしていて、バイト先には当時女子高校生だったHさんという後輩がいた。ある冬の日、彼女と一緒に働いていて、日常会話をしている際に、彼女が「ドラゴン・ボールとか好きですよ」と告げた。内心で「へえ、女でもあれを面白いと思う人がおんねや」と、ぼんやり思ったことを覚えている。当時は今と違って、男は少年漫画を、女は少女漫画を読むものだという通念がうっすらとあったから。

今では「ドラゴン・ボールが好き」という女は珍しくもなかろう。本作は国境や世代を超え、男女の境をも超えて支持された。それが一つの達成であることは間違いない。でもその要因が「本作には人間ドラマがほとんどないから」だとしたらどうだろう? 個人的には、「それでいいのかな」と複雑な気持ちになる所である。

作品情報

・作者:鳥山明
・発行:集英社





 

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