なんともキャッチーなタイトルだなと思う。本書の表題は『服が、めんどい』で、副題が『「いい服」「ダメな服」を1秒で決める』である。うむ、分かりやすい。これだけで「ああ、この本は服選びを面倒に感じたことがある人向けに書かれたんだな」とピンとくる。
著者=大山旬はスタイリストで、本書が出る二年前(=二〇一七年)には『ユニクロ9割で超速おしゃれ』という本を出している。本書はその続編にあたると言っていいだろう。やはり「ユニクロの〇〇を買うたらええねん」的な叙述が出てくるからである。ファーストリテイリング社からいくらかもらっているのか。そこまでは知らない。
本書では冒頭から、読者に対して挑発的な言葉が投げかけられる。「余計なことはしないでください」と。
そのココロは何か? 著者いわく、普通の服を選べば「ダサい」にはならないのである。しかし往々にして日本人は「普通」を「面白くない」と位置づけ、奇抜なグラフィックや柄があしらわれた服に目をやり、それを「おしゃれ」と思い込んで購入してしまう。そして家で着てみると、大なり小なりの違和感を覚える。あれ、なんか思ってたんと違うな、と。こうして「ダサい」への門を人はノックして、そのままになってしまう。
冒頭、著者はそういうマインドセットの「初期化」を試みる。上記の「余計なことはしないでください」がそれである。
著者の言う「初期化」とはもちろん言語表現に過ぎないのだが、私はこの表現で「STAP細胞」の小保方晴子を思い出してしまった。あれはネズミの細胞に弱い刺激を与えて、細胞を初期化して万能性を持つ細胞を作り出そう、という話だったが、生物はパソコンではない。だから初期化なんかされない。それが当たり前なのだが、この常識が備わっていない、生物と機械の区別がついていない世代が出てきた。それが小保方の属する、いわゆるY世代にあたるのかもしれない。ちなみに私は小保方と同学年なのであるが、もしかしたら大山も同世代なのかもなと思ってしまった。
話を戻そう。著者は本書で、読者に私服の「ユニフォーム化」を提案する。これが本書の肝と言ってもいい。
私服に個性や「おしゃれ」なんかは要らない。決まった服を、決まったヴァリエーションだけ持っていれば十分。傍から見れば、同じ服を何日も続けて着ているように見えるかもしれない。でもそこに清潔感があれば特に問題はない。ジョブズは(人前では)ずっと一定の服を着ていたけれど、彼を「ダサい」と難じた人はいないだろう。著者はそう言う。
これが著者の提案する「ユニフォーム化」で、そこで「こういうのを定番にしてみては」と例に出てくるのが、ユニクロやユナイテッド・アローズの無地の服である。なぜこれらのブランドなのかというと、服の着心地や価格帯などを総合的に考えると大変にリーズナブルで、誰でも手が出しやすいからだとか。だからシャツやカーディガンなどの基本的アイテムは、これらの店で揃えればいいと著者は説く。
と、こういう感じで本書は「服選びが面倒くさい」と感じた人向けに処方箋的な提案をしていく。著者や編集部の底意は知らないが、私は本書を読んでこう思った。結局これって、一種の「思想統制」じゃないのかなと。
二十世紀を通して、ファッションは「思想」になった。私はそう思っている。どういう服を好んで着るかは、大きく言えばその人の「思想」をそのまま表現することにもなる。たとえば、ミニスカートを好んで履くことは、自分の脚にそれなりの自信があり、それを世間(あるいは特定の誰か)に見せたいという考えに基づくはずである。そうでなければあんな動きにくい服をわざわざ好んで履いたりしないだろう。言い換えれば、ファッションとはその個人の思想や欲望を端的に表す記号なのである。
そう考えると、ここで出てくる著者の提案は「思考停止してその他大勢にうまく埋没せよ」と読者に言っているように見えるのである。もちろん著者の真意は藪の中であるが。
本書は二〇一九年に世に出て以降、それなりに売れて少なからぬ影響を世間に与えたのだろう。二〇二五年現在、ここに書かれているような無難なコーディネートをする中高年男性は、電車やモールなどで散見される。でもその光景は思想統制された国の「つまらない空気」に通ずるものがあると私は思う。多くの人が同種の「ユニフォーム」をまとっているというのは、なんだか社会主義国家みたいだなと。