いきなりで恐縮だが、『ガラスの仮面』は名作ではない。もう少し正確に言うなら「名作になり得たかもしれないけどなり損ねたマンガ」である。もちろん作品をどう評価するかは人によってまちまちで、本作を史上最高のマンガと位置づける人もおられよう。それはそれでよろしい。あくまで私は個人的にこう考量する。それだけのことなので。
どうして名作になり損ねたのか。見当がつく方もおられよう。しかしそれ以前に『ガラスの仮面』を知らない。タイトルは聞いたことあるけど読んだことはない。そういう人も多いと思う。だからまずは『ガラスの仮面』とは何ぞやという所から話を始める。
1975年━━数年前に小笠原諸島も沖縄も日本に返還され、日本と中国の国交も正常化した。日中戦争や太平洋戦争が落とした影は日本人の日常から徐々に消えつつあり、巷では「紅茶キノコ」と呼ばれる正体不明の食品が流行っていた。要するに「日本は平和だった」である。
そんな1975年の年末、少女マンガ家の美内すずえは、同年に出版事業を開始した白泉社の雑誌『花とゆめ』上で『ガラスの仮面』の連載を始める。当初は単行本にして2巻くらいで終わると作者が思っていたこの作品は、みごとに人気を博し長寿化。2022年2月現在、単行本は実に49巻を数え、休載中となっているものの完結には至っていない。
『ガラスの仮面』━━この物語は、ひとことで言えば主人公、北島マヤの成長譚(ビルドゥングスロマン)であろう。横浜に住む彼女は、平凡なティーンの女であるが、こと演劇に関してはクレイジーなまでの情熱を持つ。やがて往年の大女優「黒夫人」こと月影千草から演劇の才能があると見込まれたマヤは、月影が主宰する劇団に入り、芸能界を舞台にすったもんだを繰り広げる。本作を簡潔に説明すれば、こうなるだろう。
本作は人気を博し、その単行本は何千万部と刷られた。数字だけ見れば名作と認定してよさそうであるが、私は「名作になり損ねた」と評した。その最大の理由は、「長引きすぎた」からである。
雑誌の連載で人気に火がつく。当然、編集者は「連載を続けろ」とマンガ家に要求する。しかし『ドラえもん』や『こち亀』のように一話完結型の作品ならともかく、本作のような成長譚で本来の予定になかった延長を施すと、物語としてはどうしても間延びした内容になってしまう。こうなると十中八九、物語が本来持っていた魅力や求心力は減じてしまう。
物語は文字通り「物を語る」であり、そこには適切なサイズがそれぞれある。結婚式の祝辞はだいたい1分前後が望ましいと思うけれど、あの場で10分も20分も延々としゃべる人がいたら、新郎新婦も来賓もたまったものではないだろう。祝辞そのものの内容にかかわらず、その話に誰も耳を傾けなくなる。それと同じである。
加えて、マンガはあくまでも「絵」が主軸である。作品の初期段階に作者名義で提示された絵、それこそがオリジナルであり読者に強い印象を残す。つまりマンガの長期化においては、作品の草創期と同じような絵をどこまで描き続けられるのかという、フィジカルな問題も潜在するのである。
デジタルであれアナログであれ、絵は身体を使って描くものである。そして、例外なく身体は経年変化するものだから、描く絵の作風とて(良くも悪くも)変わってしまう。読者がその変化を「劣化」と位置づけることもある。この変化を防ごうと思えば、制作現場をスタジオ制にして、作者と同じように描けるスタッフを(いわば「作者の分身」を)常に複数キープしておかねばならない━━それで長寿化に成功したのが『ゴルゴ13』である。
スタジオ制を実現するには2つの条件がある。それだけの人材を常時雇用する経済力があること。そして、その人材に絶えず「労働の場」を提供するために作品を大量かつコンスタントに発表し続けねばならないこと。美内の財政状況は私には分からない。ただ、彼女がここ何年も『ガラスの仮面』を休んでいることを勘考すると、スタジオ制を敷くのは難しい気がする。
美内によると、本作の結末(のアイデア)はもう考えてあるという。連載開始から50年が経った2025年の年末に50巻を出して閉幕。そういう構想があるのかもしれない。このテの数字に固執する人は、たまにいるから。
でもそのときに、美内に「読者ががっかりしない絵」を提示できるのか? 版元の白泉社が、出版不況に耐えかねて親会社(集英社)に吸収されれば、白泉社コミックスというものはなくなるが、それで「50巻目が出せない」とかにならないだろうか? 知る由もない。私はただ「そこまでして長引かせて誰にどんな利得があるんだ?」と訝るだけである。