『グローバリズムという病』
私が平川克美に共感しうるもの
もし「最近読んで共感したエッセイとかありますか」と訊かれたら(誰が訊くのかはこの際さて措き)、取り敢えず今のところだとこれを挙げるんじゃないでしょうかね。平川克美の『グローバリズムという病』(東洋経済新報社)です。昨年末から年始にかけて読んだ本のひとつなんですが。
平川克美は現在60代の男性(女性じゃありません)。20代の頃に東京で翻訳会社を設立したのを筆頭に、いくつもの会社を作っては離れてきた、流浪の起業家とでも言うべき人です。
彼の著作としては『株式会社という病』、『経済成長という病』に次ぐ「病」シリーズの第三弾となるのですが、私個人のケースで言うと、この人の著作は今作一冊しか読んだことありません。それでも不自由はありません。連作じゃありませんからね。それ、エッセイか? とのツッコミもあるかもしれませんが、ご本人が「経済的な論文というよりは、エッセイに近い読み物として読んでいただければ幸い」(同掲書、9頁)と語っておられるので、それに準じたいと思います。
お話は、ITバブルが謳われていた1999年に、彼がシリコン・バレーを訪れたときの回想から始まります。日本でシリコン・バレーというと未だにIT産業のメッカみたいに思っている人がいますが、その実際が語られます。そこからアメリカ発の「グローバリズムという思想」の病理性に話が進む、というわけなんですが、その中身はご通覧頂くとして。
私が共感した最たるポイントは、たとえば「株式会社も国民国家もフィクションである」などの、彼のものの見方です。そうなんですよ。事実、会社も国家も、誰かが作ったフィクションなんです。フィクションと形容して悪ければ、概念や約束事と別言しても良い。森鴎外の修辞で言えば、「かのように」ってやつです。
もちろん、フィクションだから無価値だと言うつもりはありません。その虚構は必要だから採用されているわけですから。しかし、失礼と不遜を承知で言うと、せめて(そういった虚構を)「信じるフリ」程度にしておきませんか、と思うことが私にもあるのです。たぶん平川氏にもあるのでしょう。そこに共感するのです。
彼の意見すべてに同意はできません。たとえば彼は最終章で、地元の商店街や町工場の生活者としてのエートス(ローカリズムと言っても良いんでしょう、きっと)がグローバリズムへのカウンターのひとつ足り得るのでは、と説きますが、私は「そうですかね?」と思います。はっきり言って、それは商店街や工場の立地条件に大きく左右されるんじゃないですかね、と。
ただ、全体に伏流する彼の諦観や疑念、危機感に、私は首肯するのです。僭越至極ですが。
作品情報
・著者:平川克美
・発行:東洋経済新報社(2014)
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