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『ごくせん』
あるいはオミクロンとは無関係なヤンクミ論

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レディース・コミック(女性向けのマンガ)は、その時代の「女のあり方」を多少なりとも象徴する。少なくともヒットした作品においては、そうだろうと思う。1970年、国内初のウーマン・リブの集会が行われ、そこからやがて日本の社会で女の存在感は増していく。こうしたムーブメントの傍らで、女性向けのマンガは発展を遂げてきた。それなら、レディース・コミックと「女のあり方」とは連関していると考えても、さほど不自然ではないはずである。

2000年から2007年にかけて集英社のレディース雑誌『YOU』で連載され、テレビ・ドラマにもなって大ヒットした『ごくせん』も、やはり当時の「女のあり方」と無縁ではなかろう。この稿ではそのあたりを述べる。

森本梢子が生み出した『ごくせん』の主人公は、山口久美子という、メガネをかけたパッとしない風貌の女教師である。周囲から「ヤンクミ」と呼ばれる彼女は、勤務先に内緒にしているが極道の家の孫娘であり、そのためかケンカに強く、生徒からは一目置かれている。独身の彼女は、祖父の組「黒田一家」の顧問弁護士を務める篠原智也に惚れているが、物語が進むにつれ、彼女が受け持つ組(クラス)の男子生徒、沢田が彼女に好意を寄せるようになる。沢田は将来的に黒田の顧問弁護士になって彼女を支えたいと志すが、色恋に極めて疎いヤンクミは、沢田の懸想にまるで気付かない。

物語の設定自体に特にユニークなところはない。90年代後半にヒットした、元暴走族の新米教師が主役を務める少年マンガ『GTO』の亜流。そう言って差し支えはないだろう。

当時『GTO』は爆発的にヒットして、2000年前後にはそのエピゴーネンが雨後の筍のように頻出した。元暴走族の警官が主人公の『東京刑事』とか、元暴走族の弁護士が落ちこぼれ高校生の進学を助ける『ドラゴン桜』とか。

『ごくせん』では女性向けマンガの常道で、女が主人公を務める。そこで「元暴走族」という設定は使いにくい。走り屋の女は、往々にして、同じ走り屋の男とくっつき、若くして子供を持つ。それが当時の常識であり、そういう女が教師になるのは、いくらなんでも荒唐無稽に過ぎる。でも「実はアウトローな出自を持つ主人公が、そのアウトロー性ゆえに周囲と一悶着を演じる」という線は使いたい。そこで「極道の孫娘」になったのだろうと愚考する。

極道の孫娘である━━この一点を除けば、ヤンクミは極めて「少女マンガの常道」に則したキャラクターである。地味な風貌で、片想いの男がいるものの、色恋沙汰には鈍感。なぜ少女マンガではこういう主人公が常道なのか? そこを詳述すると紙幅がなくなるので割愛するが、私は「女のキャラクターが自らの性(セックス)に充分に自覚的だったりすると、読者(少女)はそのキャラクターを拒絶しちゃうのかな」と邪推したりもする。

先を急ぐとしよう。本作は当時の「女のあり方」とどのようにリンクしていたのか?

本作の脂が乗っていたのは、おおむね2000年代前半であろう。それはどういう時代だったのか。1970年に日本初のウーマン・リブの集会が開かれ、1980年代には既存の社会を批判する「男社会」という言葉が女達の間から生まれた。80年代半ばにあたる1985年には、男女雇用機会均等法も成立する。前世紀末、女達は社会で存在感を示し、主張を重ね、それらは少しづつかも知れないが受け容れられていった。

ところが、女達が批判するところによれば、もともと日本の社会は「男社会」である。そこに参入したいと思う女は参入する。しかし男がメインの社会では女は「異物」でしかない。苦悩する女は苦悩するだろう。自分は女である。それは生まれつきで仕方ないことなのに、どうしてそれだけで異物扱いされなくてはいけないのかと。そしてそういう女のなかには、自らの性(セックス)を極力隠すよう努めるケースも出てくる。

スカートではなくパンツを主に履く。メイクもできるだけ地味にする。男社会に溶け込むには、自らの女性性をなるべく表に出さない方が望ましい。同僚の男からいちいち性欲の対象に期されるのもウザったいし。そう考える女が前世紀末から今世紀初頭にかけては遍在したかもしれないし、今でも一定数いるかもしれない。彼女達はヤンクミと、どこかで重ならないだろうか━━「地味なルックス」で「色恋沙汰に鈍感」で、かつ「自らの出自を職場で隠し続ける」女と。

作品情報

・作者:森本梢子
・発行:集英社





 

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