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『一握の砂』
「泣く男」石川啄木の集大成

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一九〇一年、二十世紀が幕を開けた年。近代日本を代表する歌人、与謝野晶子はかねてより交際を続けていた同じく歌人の与謝野鉄幹と正式に結婚。同年、処女歌集『みだれ髪』を世に出した。彼女の短歌は発表と同時に大評判。彼女は一躍文学界の新星となった。翌年十一月、彼女の短歌に心を大きく揺さぶられた一人の少年が、東京の彼女を訪ねてきた。のちに「石川啄木」を名乗る、石川一(一八八六-一九一二)である。

石川は岩手県の住職の家に長男として生まれた。家は(比較的)貧しく、彼自身も虚弱体質なところがあったようで、結果的には二十六歳の若さで夭逝することになる。一九〇二年時点に話を戻せば、石川は東京の出版社で働きながら与謝野夫妻に師事し、歌人として生きていきたいと考えていた。が、結核を得たために就職はうまくいかず(後年にはその病弱さゆえ徴兵も免れている)、十代半ばの石川は夢を諦め帰郷する。

郷里で地元の同窓生と結婚。岩手や北海道の小学校に教員として勤めながら自費出版で細々とエッセイや短歌を出す、あまりパッとしない日々が続いた。やがて「このまま田舎でくすぶってても仕方がない」と思ったのかなんなのか、一九〇八年に単身上京。与謝野鉄幹や、中学の先輩だった金田一京助の大々的なバックアップを受けながら、東京で就職活動を続けた。翌年、朝日新聞に校正係として就職。この時の同社の二年先輩には、四年前に小説家デビューした夏目漱石(夏目金之助)がいた。

ともあれ、就職は決まった。「これで食い扶持には困るまい」で、妻子と母親を東京に呼び寄せるが、今度は嫁姑問題が勃発して、十月には奥さんが東北の実家に帰ってしまう。なんとも「才能はあるのかも知れないけど何一つうまくいかない人」の好例である。

彼が処女歌集『一握の砂』を出したのは、翌一九一〇年の暮れであった。この年には長男の真一が生まれるが、間もなく病死。なんとも踏んだり蹴ったりの人生である。『一握の砂』は、その人生から生み出された短歌を収めた歌集であり、彼のこれまでの集大成と言っていいだろう。

東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる

本書の巻頭を飾るのは、日本で育った人なら誰でも聞いたことくらいはあると思われる、有名なこの歌である。もう何もかもうまくいかなくてイヤだ。そう言って海辺で泣きたくなる━━それが啄木の人生だったかも知れない。個人的には、思わず「泣いてろ!」と言い捨てたくもなるが。

友がみなわれよりえらく見ゆる日よ 花を買ひ来て 妻としたしむ

これも有名ですね。先輩の夏目漱石、師匠である与謝野晶子は、文学の世界で飛ぶ鳥を落とす勢いを見せていた。それに与謝野鉄幹や金田一京助のサポートがなければ、そもそも東京で暮らすことさえ、ままならなかった啄木である。「あああ、俺ってダメなんだな」と思いたくもなるだろう。でも、だからって花を買って奥さんとちちくり合うの? と思う。そこに見えるのは「いじける男」ではあっても、「東京で名を成したいと希う若者」ではない。疲れた中年男がこれを詠むならまだわかるが、二十代半ばで青雲の志を抱いているはずの若い男がこれを詠むのである。ちょっと「どうなんだ?」であろう。

彼は与謝野晶子の短歌に心を揺さぶられたはずなのである。しかしそれぞれのネイチャーがそもそも対極的だったのか、晶子の持ち味である「力強さ」は、ついぞ啄木には宿らなかった。そういうふうに見える。二十世紀序盤の歌壇において、女は毅然と力強くあり、男はデリケートな弱々しさと困窮を示した。なんだかとっても「二十世紀」的である。

一九一二年の春、啄木は肺結核のために他界。第二歌集『悲しき玩具』が世に出たのは、没後二ヶ月が経ってのことだった。

作品情報

・著者:石川啄木
・発行:東雲堂書店、朝日新聞出版、他





 

『みだれ髪』
「愛に生きる女」与謝野晶子の産声

『万葉集』
日本に現存する最古の歌集