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『かくしごと』
久米田康治が描く、「親子」と「漫画家」

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世の中には(少なくとも日本には)職業のヒエラルキーというものが確かにある。たとえば農家は銀行家よりも下位だとか、零細企業は霞ヶ関よりも下位にあるだとか。もしも職業ヒエラルキーがなければ、職業差別という概念とて、私たちの社会でこれほど広く共有されることも、そもそもなかったであろう。職業差別という概念が通用する。それが、職業ヒエラルキーが確実にあることの何よりの証左なのである。

漫画家という職業はどうなんだろう。ヒエラルキーの中でどのくらいの位置にあるものだろう。久米田康治が2015年12月より『月刊少年マガジン』にて連載をスタートさせた『かくしごと』を読むと、ついそういうことを考えてしまう。

『かくしごと』の主人公は一組の親子(父と娘)である。この父、後藤可久士は小学生の娘、姫に対し、自分の職業を明かしていなかった。明かせるはずなどない。彼の職業は漫画家なのだから。それが何か? とあなたは思うかもしれない。実際、作中でも娘の担任の先生(女性)が「漫画家は立派なお仕事だと思います」と後藤に告げていた。しかし彼は諦観と虚しさを浮かべた表情で彼女に切り返す。「私はワンピースやアンパンマンを描いてるんじゃありませんよ」。そう、彼が描いてきたのは下ネタ満載のギャグ漫画だったのである。そんなこと娘に話せるわけないだろがよ、と。

この後藤可久士が、久米田と重なる。下ネタという十字架を背負った漫画家。少なくともこの設定は、久米田とパラレルなのではないか、と。

私事になるが、私が初めて接した久米田作品は『行け!!南国アイスホッケー部』であった。小学生の時に読んだんですが、面白かったですな。ホッケーそっちのけの下ネタ全開で。母に見つかって、いつの間にか捨てられちゃいましたけど。そういう経験をした読者が全国に多くいたのであろうことが『かくしごと』の作中でも触れられている。やるせない。だからどうしても後藤可久士は、私の中で久米田本人と不可分な存在として定立してしまう。

むろん、そんなことは作者も織り込み済みで、第一巻のコラムで、後藤可久士は久米田康治のことではないと断っている。断ってはいるものの、そうとしか読めない。つまりリアリティに富んでいるのである。

ただ、久米田は単にあるあるネタを描くだけの漫画家ではない。内容がどんなにとっ散らかっても、作風がどんなに変わろうとも、最後には整然とひとつの話にしてまとめあげる、責任感あるストーリーテラーでもあることは過去の作品で証明済みである。とっ散らかったまま終わった感があるのは『南国』くらいか。『育ってダーリン!!』は、うん、まぁあれはあれで。

今作は、姫が高校生に成長した時代の「未来編」と、彼女が小学生時分で可久士が主人公を務める「現在編」が交錯する。漫画家の日常というテーマが縦糸だとしたら、父と娘、親子というもうひとつのテーマが横糸として機能している。これが物語としてどう紡がれ、落ち着くのか。ゆるやかなテンポで楽しみにさせてくれる。

そしてそのストーリーの底流には「世間にとって漫画家とはどういうものか」という問題提起が絶えずある。私見ながら、そういう気がする。第三巻では、ある日本画の大家と自分を比較し、可久士が思いにふける。同じ「描く仕事」でもえらい違いだよな、と。そこでは、自分たちの足許を冷静に見てみろよ、と訴える久米田の声が静かに、しかし確実に聴こえてくるのである。

はーん!

作品情報

・作者:久米田康治
・出版:講談社
・連載期間:2015年12月~連載中






 

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