このタイトルからご賢察のように、この物語の主軸は高校生である。推測にはなるが、おおかたの人は「部活」という単語から小学生や社会人を連想はしないだろう。かと言って、大学生を連想させたい場合には、部活より「サークル」が望ましくなる。事程左様、部活という言葉から連想され得るのは「中学生」か「高校生」なのであり、あとは二分の一の確率でどちらになるかだが、今回は高校生なんですよというだけである。
本書『桐島、部活やめるってよ』は朝井リョウ(一九八九~)が早稲田大学に在籍していた二〇〇九年、集英社の小説すばる新人賞に応募して受賞に至った作品である。単行本は翌二〇一〇年二月に、文庫本は二年後の二〇一二年四月に、それぞれ同社から刊行された。
率直に言って、本書は歴史的な大ヒットを記録したわけではない。本書を原作にした実写映画も作られ二〇一二年に封切られたが、それとて別に黒字だったということもない。にもかかわらず、このタイトルは(日本国内に限って言えば)かなりポピュラーだと思う。たぶん大多数の人は、この表題をどこかで見聞きしたことがある。このキャッチーなタイトルが独り歩きして、様々な業界でミーム化し(つまり「××、〇〇▲▲ってよ」という形のパロディーがあちこちで無数に作られ)、有名になったのだろう。裏を返せば、本書が具体的にどういう話かを知る人は、タイトルの知名度の割にはそんなに多くないと推量されるのである。
映画『桐島、部活やめるってよ』予告編
複数のティーンズがそれぞれ主人公を務める複数の短編によって、本書は構成されている。表題が告ぐように、物語は「桐島」という人物を中心に展開されるのだが、タイトルに「やめるってよ」とある通り、桐島はあくまで伝聞の中にしか登場しない。物語のキーでありながら、作中に姿を見せないのである。不在であるがゆえの存在感が、物語の最初から最後まで通底している。
序章にあたる「菊池宏樹」で、桐島は男子バレーボール部のキャプテンであるが、退部するらしいことが語られる。ここで主人公を務める菊池は野球部所属なので、バレー部とは直接関係がないのだが、桐島とは顔見知りであるらしいこと、物語の時期は冬の気配が漂う秋であることがテンポよく描写される。
この章は極めて短く、物語は実質的な第一章である次章「小泉風助」から本格的に始まる。ここでの一人称「俺」はつまり小泉なのであり、冒頭で彼が男子バレー部員であること、桐島の退部によって彼の部活生活にいささかの変化が起きたことが読者に知らされる。
第二章「沢島亜矢」では、その名の通り女子高生が主役を務める。彼女は別に男子バレー部のマネージャーだとか、女子バレー部員とかではなくて、ブラスバンド部の部長である。じゃあ「桐島」の彼女とか片恋の相手なのかというとそうでもない(桐島のガールフレンドは「梨紗」という女子である)。沢島にとって、桐島の退部はどういう意味を持ったのか?
こういう具合に、何人かの人物を主人公に据え、それぞれの物語がオムニバス式に提示される。そのいずれにも、実際には姿を見せない「桐島」の退部が、多かれ少なかれ関わってくる。
こうした結構でぱっと思い浮かぶのは、村上春樹の短編集『神の子どもたちはみな踊る』である。あの短編集は、作中で直接的に描かれない阪神淡路大震災が、それぞれ違う場所でそれぞれの人生を生きている六人(彼らは地震で被災したわけでもない)に、どのような変化をもたらしたかを書いていた。村上の大学の後輩にあたる朝井が、あの短編集を換骨奪胎して━━つまり阪神淡路大震災を「桐島」という人物に置き換えて━━群像劇に仕立て上げたのが本書であるという見方も、あるいはそれなりに成り立つかもしれない。
断っておくと、私はそれを難じているわけではない。物語の構造など限られているのだから、同じような結構を持つ物語の先例は、探せばそれなりにあると思う。物語で大事なのは語り口で、そういう点では作者が作中のキャラクター達と歳が近い時期に書いたことが、本書のアドヴァンテージ足り得ているのではなかろうか。朝井自身、学生時代はバレー部で補欠だったというから、自分の経験を基にしたある種の私小説という側面もあるかもしれない。
つまりどういうことかというと、本書は「一九九〇年前後に生まれた人達は、〇〇年代にこういう感じで高校生活を過ごした」的なことを表すショウケースでもあるのではないか、ということである。もちろん実際には、地域や家柄によってさまざまな個人差があろうけれども。
著者はハロー!プロジェクトのファンだと仄聞する。ハロプロでこの世代にあたるのは、元モーニング娘。の田中れいなや(引退した)道重さゆみである。彼女達は本書を読んで、どう感じるのだろう? ちょっと気になるところではある。