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『チョウを追う旅』
チョウを求め、チョウを極めた男の自伝

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伝記を読む効用というのは、大きく分けて二つある。ひとつは、自分(読者)が未経験の時代(過去)を追体験できること。もうひとつは、こんな生き方があるのかと、自分や自分の周りにはない人生観、価値観を手に入れられることだ。小岩屋敏の自伝『チョウを追う旅』を読む効果は、特に後者において強いのではないだろうか。

恐らく大多数の人は━━決してバカにした物言いではないが━━小岩屋敏なる人物を知らないだろう。彼を知る人となると、昆虫学、生物学を専攻する人か、あるいは虫に関連した趣味や営みを持つ人になるはずだ。つまるところ小岩屋は虫屋なのである。現役で東大に入ったものの、周りを見渡してみても、学びたい対象は見つからなかった彼は、子供の頃から好きだったチョウの採集で生きてゆく為、ドロップ・アウトを決意した。


もちろん、ただ虫を集めているだけで、生計が立てられるはずもない。それが出来るなら私だってやりたい。彼は昆虫愛好家に標本を売りつける、いわゆる「標本商」を始めた。その点では、東大在学中に起業して中退した堀江貴文と似ているかもしれない。ただし小岩屋は30年近く標本商を営み、現在は引退している。自伝のタイトル通り、彼はチョウを追い求め、エリートの道を捨て、世界中を旅したのだ。彼が記載したチョウの新種は、じつに70以上にも及ぶ。

ちなみに彼は宮崎出身であり、『チョウを追う旅』は宮崎日日新聞紙上で113回(2012年7月5日~11月6日)にわたり連載された自分史を一冊にまとめたものである。何と言っても、文章の躍動感が素晴らしい。仮にあなたが虫嫌いだとしても、彼が語るエピソードの数々には多少なりとも驚愕し、興奮を覚えると思う。それはチョウや虫うんぬんではなくて、「自分が信じた価値観に拠って人生を送る」彼の姿勢が、あなたの心の深層に何かを呼びかけるからである。

あなたを含む日本人の大半は、生きる為に組織に属し、時間、価値観、自律性などの「自己の一部」を組織に献上し、対価を得る形で暮らしていると思う。それ自体は誰にも、少なくとも他者に迷惑を掛けていなければ、否定されるすじあいはない。しかしあなたが切り捨てた「自己の一部」は、不意にどこかで呻き、ときとしてあなたは、その声にさいなまれるかもしれない。

その声にさいなまれる時には、小岩屋の人生を眺めてみて欲しい。もちろん、あなたに虫屋になれとすすめるのではない。そもそも、読んで頂ければ分かることだが、あんな波乱万丈な人生をすすめる度胸も無責任さも、私にはない。しかし物体がそれぞれ固有の振動数を持ち、それが共振を起こすように、彼の人生があなたの「一部」と共感するかもしれない。その時、彼の価値観は高い確率で、あなたをさいなむ声に呼応するはずである。

ただし公正を期する為に、それは片道切符しか用意してくれない(つまり帰り道を用意してくれない)悪魔の誘惑かもしれないと付言させて頂くが。


作品情報

・著者: 小岩屋敏(日本昆虫協会 会長)
・発行: ヘキサポーダ(2014)





 

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