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『みだれ髪』
「愛に生きる女」与謝野晶子の産声

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一九〇一年。言わずもがな、二十世紀がスタートした年である。この年、近代日本を代表する歌人━━と言って過言ではあるまい━━与謝野晶子(一八七八-一九四二)は自身初の作品集『みだれ髪』を世に出した。

与謝野晶子は、日本が明治に入ったばかりの目まぐるしい時代、今で言う大阪の堺に、鳳志やう(ほう・しょう)として生を受けた。珍しい名字だな、と思われるだろうか? 日本では、江戸時代までほとんどの人は名字なんて持っていなかった。彼女が生まれる三年前に「平民苗字必称義務令」が定められ、国民は皆、何でもいいから名字を持たねばならなくなったのである。だから明治に入って、なんだかわからないけど取り敢えず名字をGETしたという人が、巷には多数いた。鳳さんもそのケースであろう。

与謝野晶子の実家は和菓子屋だったが、彼女は三女だったので、跡を継ぐ可能性はほぼゼロだった。だからなるべく良縁に恵まれるように、良いところにお嫁に行けるようにと、漢学から琴、三味線など、いろいろな習い事を若い時分(十九世紀末)にたしなんだ。俗にいう「花嫁修業」で、今ではそういうのを「封建的で女性蔑視的だ」と言う人もいるだろう。しかし、当時は価値観も制度も習慣もドラスティックに変わっていった転換期である。明日には何がどうなっているか誰にもわからない━━そういうカオティックな時代なのである。「とにかく手に職なり芸なりをつけておけば、いざというとき何とかなる」と考えるのは、むしろ当然だったろうと思う。

ともあれ、その「いろいろな習い事や趣味をたしなむ」の一環で、彼女は和歌や短歌にも親しんでいた。それがきっかけとなって、彼女は一九〇〇年前後、歌人の与謝野鉄幹と出合い、フォーリン・ラヴする。時は十九世紀末葉、正に時代の変わり目である。鳳志やうという女性がやがて「与謝野晶子」になる予感を濃厚に匂わせる中で、十九世紀は終わりを告げた。

この与謝野鉄幹とは何者か? もともとは京都の与謝野郡(現与謝野町)で、僧侶の息子として生まれた歌人である(家が与謝野郡にあったから与謝野姓になった)。長じてからは、実兄の所属する寺院が経営していた女学校で教員として禄を食み、そこで歌人としても活躍した。私生活では、女学校での教え子に手を出し、その女性と結婚したものの程なくして離婚。別の教え子と関係を持ち、再婚する。鳳志やうと出合った時点で鉄幹は「バツイチの妻子持ち」だった。

鉄幹とは「そういう人」である。だから志やうと不倫関係になれば、その恋も熱く燃え上がる。年が明け、一九〇一年。輝かしい新世紀がやってきた━━と思ったのかどうかは知らないが、鉄幹は「古いしがらみとはおさらばだぜ」とばかりに妻と子に別れを告げ、離婚。十月に志やうと再婚する。

かくして、ここに歌人「与謝野晶子」は生まれる。そして『みだれ髪』もこの年の八月十五日に出版され、大反響を呼んだ。そこに収録されている短歌は、おおむね情熱溢れる「恋の女」をストレートに歌っていた。保守派は非難ゴウゴウ、「こんな奔放な女はけしからん! 女は男の後ろで、貞淑に家を守っているべきものだ」を言い立てたが、反面、純粋に歌の芸術的価値を認め、絶賛する向きも多くあった。

つまり賛否両論だったわけである━━が、恋する女はさすがに強い。与謝野晶子は、世間の声など「ふん、勝手に言ってなさいよ」とばかり、堺の家を飛び出し、歌に生き、愛に生きる。彼女は歌人としての才気溢れる活動の傍ら、鉄幹との間に六男六女をもうけた。ミセス・ヴァイタリティ。もっとも、二十世紀に入ってから夫の鉄幹は歌人としての冴えを失い、没落したというが。

二十世紀に入り、一九〇四年には日露戦争が始まった。十代半ばで日清戦争を経験した「愛の人」与謝野晶子は、この年「君死にたまふことなかれ」という詩を発表する。弟への「戦争で死なないでほしい」という想い、そして天皇への疑義と訴えを具えたこの詩は、大変な物議を醸した。のちに大逆事件や大正デモクラシーなどが起こり、国民と国家との間で摩擦が激しくなる━━その兆候はもうこの時代にあった。

ヨーロッパでは第一次世界大戦を契機に反戦思想が根付いた。日本では世界に十年ほど先駆け「反戦運動」が成立したと言えるかも知れない。その中心には「愛に生きる女」がいた。その「愛に生きる女」は、歌集『みだれ髪』で産声を上げる。「男の思想が衰退を見せ、女が台頭する二十世紀」は、それと共に始まるのである。

作品情報

・著者:与謝野晶子
・発行:東京新詩社、伊藤文友館、他





 

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「泣く男」石川啄木の集大成