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『宮本武蔵』
吉川英治が叙したバガボンド

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時代小説あるいは歴史小説と呼ばれるジャンルがあり、日本の多くの小説家がそれに属する作品を世に送り出してきた。今日、時代小説はひとつの文化圏を形成していると言っても、言い過ぎではないと思う。時代小説の作家というと吉川英治の名前が浮かぶ。そういう人も多かろう。私は、大衆小説作家として名高い吉川によって、日本の時代小説の方向性は決定付けられたとさえ考えている。だから今でも時代小説は、「大衆小説=エンタメ系」に位置付けられているのだろうと。

吉川の代表作は何か。当時はそれなりに権威ある新聞だった朝日新聞に、彼が1935年から1939年まで連載した時代小説『宮本武蔵』であろう。このことに異論のある人はそうそういないと思う(別にいてもいいんだけど)。

とはいえ、現時点(2022年)で、吉川が物故して既に半世紀以上が過ぎている。今では「吉川英治なんて聞いたことない」という人も多かろう。

吉川英治は旧小田原藩士の次男として、1892年の神奈川県に生を受けた。当時(19世紀末)の日本は文化的にも経済的にも混乱期であり、吉川の父親は安定的に家庭を営むことができなかった。ために吉川は小学校を中退して職を転々とすることになるのだが、その一方で文章の修練を独学で重ね、自身が30代になる1920年代に、専業作家となった。

大正や昭和の時代においても、現代と同じように、作家業だけで食べていくというのは並大抵のことではない。多くの作家は兼業を余儀なくされる。吉川が専業作家になったということは、吉川の作品が巷で人気を博し、安定的に収入があったことを意味する。夢の印税生活である。

しかし、当時の吉川の妻は、それまで貧しかった夫が「スター作家」になって豊かになったものだから、その生活の変貌ぶりに付いていけなくなり、ヒステリーに陥ったと伝えられる。吉川は、なんとか奥さんを落ち着かせよう、家庭生活を安定させようとあれこれ画策するのだが、有効な手を打ち出せることはなかった。1937年、2人は結婚生活にピリオドを打つ。まぁこの辺りは、ジョン・アーヴィングの例を持ち出すまでもなく、小説家的には「わりとよくあること」なのかも知れない。

同年、吉川は別の女性と再婚した━━わけだけど、ここまでの話は作家の身の上話である。これが『宮本武蔵』とどう結び付くのか?

吉川が本作を執筆することになったきっかけは、彼がある論争に巻き込まれたことだという。その論争の主題は「宮本武蔵はヒーローだったのか否か」で、吉川は「まぁ多分ヒーローだったんじゃないですかね」の立場を採った。そう主張する根拠は何か? そう詰め寄られ、吉川は本作を書いたと伝えられる。小説家なら言いたいことは小説で言うものだという流儀に準じたのだろうか。私は単純に、「論争から小説が生まれるんだ」と少し驚く。

物語は関ヶ原の戦いから始まる。武蔵と、彼の友人である又八(共に男性)はその戦争に参加していたが、自分達の敗けは濃厚である。どうしたものか。たまたま近くにいたお甲と朱実の母娘の世話になり、彼らは生き延びる。やがて武蔵は単身帰郷するが、いろいろな不遇に見舞われる。武蔵は「ふざけんじゃねぇ、俺が何したってんだ」と怒りに任せて狂うが、やがてとある人物と出合い改心、人の道だか剣の道だかをまっとうに歩めるよう、求道者となり旅を続ける。

ここで描かれる武蔵は、いわば「光を求めて彷徨する旅人」である。それは妻のヒステリーという理不尽に難渋しながら、彼女との生活をなんとかしようと足掻く当時の吉川の鏡像かも知れない。

もっとも、武蔵の話だけなら、よくある「主人公が穴に落ちて、そこから這い上がる話」である。しかし吉川はさすがのスター作家で、同時に「別の物語」もちゃんと提示する。又八である。戦地で彼らを助けたのは母娘だと前述したが、そこで又八は肉欲に溺れてしまうのである。道をストイックに求める武蔵と、ストイシズムとは逆を行く又八。吉川はこの2人を軸に、極めてスムースな筆致で在りし日の群像劇を物語る━━それが『宮本武蔵』である。

本作品は好評を博し、今でも講談社や新潮社など、複数の出版社から文庫本が出ている。また1998年には、漫画家の井上雄彦が本作品を原作とした漫画『バガボンド』の連載を開始。こちらもベストセラーとなっている。

作品情報

・著者:吉川英治
・発行:講談社、新潮社等





 

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