『翻訳夜話』は、村上春樹と柴田元幸の対談集である。1996年、当時、東京大学で助教授として教鞭をとっていた柴田が、旧知の仲である村上をゲストに招いて、翻訳に関するワークショップを開いた。本書の第1部はその模様を活字化したものである。それに端を発して1999年、今度は2人が翻訳学校の生徒たちの前で対談をした。第2部がそれに相当する。
第3部は2000年の春、2人が日本の若い翻訳者たちと、翻訳について語り合ったフォーラムである。村上はレイモンド・カーヴァーを、柴田はポール・オースターを網羅的に翻訳してきた。そこで村上がオースターの短篇を、柴田がカーヴァーの短篇をそれぞれ訳してみる。その2つの訳稿を主軸として、岸本佐知子や畔柳和代ら、当時の若手翻訳家たちと翻訳について語り合うというもの。ちなみにその2つの短篇は原文、訳文ともに、本書に収録されている。
村上春樹(1949-)を語るのに贅言は要すまい。おそらく存命中の日本の小説家の中において最も世界中に読者を持つ小説家である。また村上には翻訳家としての顔もある。そもそも処女作『風の歌を聴け』が群像新人文学賞を受賞し、村上は小説家としてデビューしたわけだが、そこで「これで翻訳の仕事ができるかもな」と思ったというから、筋金入りの翻訳マニアと言って差し支えはあるまい。
村上はこれまでレイモンド・カーヴァー、スコット・フィッツジェラルド、レイモンド・チャンドラー、ティム・オブライエンなど、主にアメリカの作家の作品を中心に翻訳活動を展開してきた。つまり村上は、世界的な小説家としてのみならず、アメリカ文学を日本に紹介する良質な「メディエター」としてもこの40年ほど活躍してきたということである(変わったところではダーグ・ソールスターというノルウェーの作家の小説も、英語版から重訳して発表していたりするが)。
とはいえ、誰でも最初は素人である。村上だって然り。30代半ばのある日、彼は『熊を放つ』という長編小説の翻訳に挑む。それまで短篇を訳したことはあっても、長編はやったことがなかった。だから訳しきれるかどうか、自信がなかった。そこで村上は知り合いの編集者、安原顯(2003年没)に、誰かに翻訳をチェックしてもらえないだろうかと相談する。程なくして安原は若い翻訳家、国文学者を5人ほど揃え、翻訳チェックのチームを整えた。その中のひとりが、若き日の柴田元幸であった。村上は『熊を放つ』の刊行記念の打ち上げで柴田と初めて顔を合わせ、それ以来の付き合いであるという。
柴田元幸は1954年、東京都生まれ。村上同様、アメリカの現代文学を中心に翻訳してきた翻訳家である。ポール・オースター、スティーヴン・ミルハウザー、リチャード・パワーズ、レベッカ・ブラウンなどの作品を、信じられないほどの精度と速さで訳し続け、日本人読者に紹介し続けてきた。上述のように、長い間、東京大学で教鞭をとり続けていたが、2014年に退任。現在は一翻訳家として、また雑誌『モンキー』の編集者として、相変わらず精力的に活動している。
率直に言って、私は柴田元幸という人にいいイメージを抱いていない。もっとはっきり言えば「苦手」である。言葉の随所にエリーティズムというか、人を排斥する感じというか、そういうものが散見されて、今一つ好きになれない。だからして彼の随筆や小説を読むというのは(少なくとも今の私にとっては)純然たる時間の空費にしか思えない。
ただ、本書は対談である。対談では柴田のそういったテイストは鳴りを潜めているように思う。だから読みやすいし、不快になることもない。それに(取り繕うわけではないが)彼の翻訳家としての功績、翻訳家としての在り方については、個人的には敬意を払っているつもりである。つまり『翻訳夜話』では、優れた翻訳家と優れた翻訳家が、翻訳という営みについて、ときに実際的に、またあるときは観念的に、とことん語り合っているということ。
本書は2000年秋、文春新書として刊行。2003年には本書の続編というか派生というかの形で、本書と同様の村上、柴田のコンビで『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』が、同じく文春新書として発表されている。