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『野菊の墓』
子供と大人の間、浪漫と自然の間

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『野菊の墓』は、伊藤左千夫(一八六四-一九一三)が一九〇六年に発表した中編小説である。今作を原作としたドラマが一九七七年に山口百恵主演で放送されたり、その四年後に松田聖子主演で映画化されたりした(らしい)ので、五十代以上の人の間では、わりとポピュラーな作品なのかもしれない。少なくともタイトルだけは聞いたことがあるという人は多かろう。

日本の近代文学には自然主義、浪漫主義という二つの大きな「主義」がある。浪漫主義は自然主義に受け継がれ、さらに自然主義から私小説が派生し、やがて私小説は一世を風靡する。これが日本のオーソドックスな近代文学史観だと思うが、ではこの二つの主義のどちらにも属さない文学作品はどうなるのか?

もちろん、答は「適当に放っておかれる」である。現時点で子供がいない私には、今の日本の学校教育がどうなっているのかよく分からないが、日本の近代文学を学ぶ国語の授業では、与謝野晶子の『みだれ髪』や島崎藤村の『破戒』は出てきても、江戸川乱歩の『怪人二十面相』などは(たぶん)出てこないだろう。生徒の大半は「近代文学に選ばれた作品と選ばれなかった作品には、どんな違いがあるのか?」などとは疑問に思わず、試験に出てきそうな固有名詞を銘々に暗記するだけして、素通りする。それが「適当に放っておかれる」の実相だと思っている。

別に教育批判をぶちたいわけではない。二つの主義のどちらにも属さない文学作品には文学史上の適当な位置づけがなく、ために通史的に説明しにくい。それだけのことである。そしてもちろん『野菊の墓』は、この「文学史上の適当な位置づけがない」作品の一つである。

物語は数えで十五歳(満十三歳)の少年と、二歳年上のいとこの民子とを軸に進む。十三歳の政夫の母は体調が芳しくなく、家を切り盛りできない。そこで親戚の民子が手伝いにやってくる。これ自体は当時には珍しくない話で、年端もいかない二人は無邪気にじゃれ合う。まだ「恋」にはならない幼い関係ではあるが、十三歳と十五歳というのはビミョーな年齢でもある。ある日、母親は二人にこう言い渡す。

「お前等二人が余り仲が好過ぎるとて人が彼是云うそうじゃ。気をつけなくてはいけない。民子が年かさの癖によくない。是からはもう決して政の所へなど行くことはならぬ。吾子を許すではないが、政は未だ児供だ」

母親は二人を引き離し、それゆえに政夫の中には「恋」が芽生えてしまうのだが、それでどうなるわけでもなく、翌月、政夫は家を出て中学に入る。彼らは物理的に離ればなれになり、翌年、民子もどこかの家に嫁いで子供を孕むものの流産となり、彼女自身も夭逝してしまう。民子と政夫の仲を引き裂いた自覚を持つ母親は、泣きながら「民子は私が手を掛けて殺したも同じ。どうぞ堪忍してくれ、政夫」と詫びる。作者の伊藤自身もまた、本書を朗読した際にぼろぼろ泣いていたという。読者の中には「泣きたいのは民子の夫となった人じゃないか?」と訝る向きもあろうが、彼は終始表面に出てこない。

今作が雑誌に発表されたのは一九〇六年一月。日本の自然主義の先駆けとされる島崎藤村の『破戒』が自費出版されたのが同年三月だから、今作は自然主義には該当しない。では浪漫主義かというと、そうでもないと思う。一般に浪漫主義とは、個人の恋愛を前面に出した「恋愛至上主義」的作品のことである。たとえば、与謝野晶子の『みだれ髪』。この歌集には「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」という有名な歌が収録されているが、個人の激情、身体化されるほどの熱情をまざまざと表現したこの歌は、紛れもなく浪漫主義的であろう。

しかし『野菊の墓』は個人間の恋愛を前面に出さない。むしろ抑制する。女の方が年上だから、結婚は許されない。子供の相手は親が決める。それは当時としては当たり前の風習で、この物語は、言ってみれば「明治の世においてはどこにでもあった話」を淡々と描写しているのである。だから作者を含め多くの人が、本作を読んで涙したのだと思う。自分の過去にあった(かもしれない)恋にならなかった恋を静かに偲んで。

本作が発表された雑誌「ホトトギス」には、当時明治大学で教職に就いていた夏目漱石の処女小説『吾輩は猫である』も前年から連載されている。その夏目は本作を読み、作者の伊藤に手紙を出した。「野菊の墓ハ名品です。自然で、淡泊で、可哀想で、美しくて、野趣があって結構です。あんな小説なら何百篇よんでもよろしい」と大絶賛、激賞であった。

ただし、夏目の嘆美とは裏腹に、この『野菊の墓』には文学史上の立ち位置が与えられなかった。それは(夏目曰く「自然」であるのに)自然主義にカテゴライズされず、かといって内容は「非浪漫主義的」と言っていいものである。ともすればそれは、浪漫主義と自然主義のあわい(間)に位置するのかもしれない。ちょうど民子と政夫が、子供と大人の間に位置したように。

作品情報

・著者:伊藤左千夫
・発行:新潮社、岩波書店、他





 

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