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『破婚』
作詞家、及川眠子とトルコ人男性との13年間

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「破婚」とはなんとも、まがまがしい感じのする日本語である。こんな言葉が実際にあるのか。最初にこのタイトルを見たとき、てっきり著者の造語だろうと思った。ところがこういう言葉が本当にあるのである。意味は「婚約関係の解消」だという。それなら「離婚」でも良さそうだが、破婚と離婚では、漢字から受け取る印象が決定的に違う。

著者、及川眠子(1960-)は作詞家である。1980年代に作詞家としてデビューし、以降、主にポップス系の音楽に詞を書いてきた。彼女が作詞した曲で最も有名なものは、おそらく「残酷な天使のテーゼ」であろう。1995年に放送されたアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』のオープニング曲である。他にも、Winkや初期の安室奈美恵(スーパー・モンキーズ4)などに詞を提供してきた。



及川眠子が作詞を手掛けた、Winkの「淋しい熱帯魚」(1989)

そんな彼女が、2016年に新潮社から出したメモワール。それが『破婚』である。2018年に休刊となった『新潮45』に彼女が連載していたエッセイを基にしたもので、副題は「18歳年下のトルコ人亭主と過ごした13年間」とある。内容はこの副題の通りである。

2000年、及川は40歳になっていた。ポップス業界では「歌い手が歌詞も書く」が半ば常態化し、職業作詞家の需要が以前ほどなくなっていた。とはいえ、及川に収入がなかったわけではない。むしろ、当時の平均的な同世代の日本人女性と比して言うなら、彼女は金銭的には裕福だった。だからこそ、彼女はトルコに易々と出かけたりもできて、現地でとある若いトルコ人男性と知り合いになり、やがて関係を持つことにもなる。

これだけなら「四十路女の『旅の恥は掻き捨て』エピソード」に過ぎない。ところがその後何年か紆余曲折があり、2005年、彼女はその男性と結婚に至る。当時の及川はバツイチで、副題にあるように「18歳年下のトルコ人」と再婚したわけである。

「なるほど、国際結婚の大変なエピソードを紹介する『ダーリンは外国人』系の著作なんだな」━━そう思う方もおられるであろう。もちろんそういう要素もないではないが、主題はそれではない。それだけなら、副題のほうを本題にすればいい話である。しかし、本書のタイトルは「破婚」なのである。

詳細は本書を読んで頂くとして、このトルコ人男性が、人格分裂や精神障害を疑いたくなるくらい、わけが分からない。彼に振り回され、及川は財産の大半を失い、多額の借金まで背負う羽目になる。及川の周囲は「離婚したほうがいい」と奨めるし、及川も「もう彼との関係は解消したい」と思い、2014年に解消した。離婚時に及川が負っていた借金の総額は、実に7千万円。

本書はその一部始終を及川の筆で記録したもので、そこには苦々しく、哀しい「何か」が横溢している。なればこそ、本書には「破婚」というまがまがしいタイトルが冠せられたのであろう。

さて、とはいうものの、一般的な日本人にとってはそもそもトルコが縁遠い。私にしてもトルコに行ったことなどないし、トルコ産の物って何かあったかなと家の中を探してみたが、「メイド・イン・ターキー」は革ジャンくらいしかない。加えて、作詞家という職業もよく分からない。どうすればなれるのか、印税とかいうけど収入はどういう仕組みになっているのかなど、一般の人には分からないことが多分にあると思う。

そのあたりの説明も、つまり「トルコがどういう国か」とか「作詞家の収入の仕組み」の説明も、本書内ではちゃんとされている。及川眠子という人物や、トルコに関する予備知識が何もなくても、「とある作詞家の女性が若い外国人男性と過ごしたすったもんだの13年間」が読者に伝わるようになっていると思う。

私の感想は述べない。及川眠子は、自身の人生や財産と引き換えに、つまりは身銭を切って、本書を書き上げたのである。その点に満腔の敬意を表するし、それゆえに、軽々しくどうこう評していいもんかな、と逡巡もする。ただ、それで投げ出すのもアレなので、敬愛する養老孟司が今年(2020)叙した言葉を引用し、それを以て結びとしたい。

世間とはなにか。社会の正統であろう。正統とは(中略)自分はこうだと明示的に示さない。それを言う必要がないのである。(中略)でも明確な説明なしに『それが世間の常識だろ』とも言うのである。
 そういう鵺みたいなものを相手にして、長年過ごしてきた。(中略)人生の半分は自然が相手で、残り半分は世間が相手である。もっぱら世間しか相手にしない人は多い。でもそれは不幸を生む。私はそう思っている

(養老孟司・伊集院光『世間からズレちゃうのはしょうがない』
 PHP研究所、2020年、p182)

作品情報

・著者:及川眠子
・発行:新潮社





 

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