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『陰獣』
「江戸川乱歩」の帰還

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江戸川乱歩(1894-1965)は明治期の三重県に生まれた推理小説作家で、大正期から昭和中期にかけて活躍した。ご承知のように、19世紀半ば、日本はそれまでの鎖国制度を止め、開国した。彼が生まれた19世紀末には、日本は近代化を急ピッチで進めるべく、ロシア、フランス、イギリス、アメリカなど当時「先進国」とされた国々の文化、情報、思想などを、がむしゃらに取り入れていた。そこでは翻訳文化が急速に発展し、人々は欧米の貴重な書物を自国語で読むことができた。のちに江戸川乱歩を名乗る平井太郎も多分に漏れず、イギリスの推理小説(ウィリアム・ル・キューの作品と伝えられる)の日本語訳版を少年期に読み、推理小説に開眼したという。

1923年、3年前に創刊された探偵小説雑誌『新青年』上で、江戸川乱歩は推理小説作家としてデビュー。早稲田大学卒業後、貿易会社や古本屋など職を転々としていた乱歩だったが、デビュー後2年ほどで専業作家として身を固めた。それくらい彼の推理小説は好評を博し、熱心なファンがついたのである。しかし、本人は自身の書いた小説に満足はしていなかったようで、1927年には一旦筆を折る「休筆宣言」に至った。

乱歩は本格ミステリー作家を志していた。しかし、当時の読者は、彼の作品に通底する、猟奇的でアブノーマルでエロティックかつグロテスクな雰囲気━━いわゆる「エログロ」を嗜好した(そういう作品ばかりを書いていたわけでもないのだが)。乱歩は「自身が求めるもの」と「読み手に求められるもの」の齟齬でずいぶん悩んだという。

とはいえ、人気作家をいつまでも放っておく編集者もいない。当時『新青年』誌で編集長を務めていた横溝正史(彼自身も推理小説作家であった)の奨めを受け、乱歩は1928年に中編小説『陰獣』を同誌に3号連続で掲載する形でカムバックを果たす。

物語は、推理小説作家の男性「私」と、実業家の妻、静子が出合い、始まる。静子は、かつて付き合っていたミステリー作家「大江春泥」こと平田一郎から脅迫を受けており、その旨を「私」に相談する。大江は自分を振った女に付きまとうストーカーのようなもので、静子は迷惑していると。同じミステリー作家の醜聞であり、器量よしの静子の相談でもあるということで、「私」は大江にコンタクトを取ろうとするが、なかなかうまく行かない。そのうちに静子の夫(実業家)が死体となって発見されてしまう。

『陰獣』は「江戸川乱歩、健在」を高らかに宣言した。本作を掲載した『新青年』は飛ぶように売れ、増刷。雑誌は再販にまで至ったという。横溝は乱歩の没後、当時を振り返り、本作を「乱歩文学の両巨峰(の片方)であると信じて疑わない」と絶賛した。

「乱歩健在」である以上、そこには当時の読者が求めていた、アブノーマルでエロティックな要素も含まれていた。だからこそ売れた。なんで当時の大衆はそういう要素を求めたのだろう? 当時が社会的不安に覆われた時代で、その暗さを反映してエログロが求められたとする説もあるが、ほんとうだろうか。果たして当時はほんとうに「暗い時代」だったのか?

1923年(乱歩がデビューした年)の9月には、関東大震災が起きている。その被害額は当時の国家予算の3倍ともいわれ、巷には朝鮮人や左翼活動家を虐殺する惨劇が続発した。経済的にいえば、第一次世界大戦のもたらした好景気が株価の暴落とともに終息したのが1920年。そこからの日本は一貫して不景気で、1929年の秋には、アメリカのウォール街に端を発した世界恐慌(バブル崩壊)が世界中を席巻し、日本は追い打ちを食らう。1926年には大正が昭和に改められたが、改元後間もなく、小説家の芥川龍之介は将来に対する「ぼんやりした不安」を抱え、自死してしまう。こうして並べて見ると、確かに「明るい」とは言いがたい気もする。

しかし一方でこの時代は大衆文化の勃興期でもあった。テレビこそまだないものの、1925年にラジオ放送が始まり、人々はラジオで中継される大学野球(プロ野球はまだない)や相撲に白熱した。1928年には日本人が金メダルを初めて獲得したオリンピックも中継され、大きな盛り上がりを見せた。関西では1919年に宝塚少女歌劇団が発足し、人気を博した。1921年には、やがて「日本映画の父」と言われるようになる牧野省三が、京都に自分の映画会社を設立し、本格的な映画プロデューサーへ歩を進める━━「映画の時代」の幕開けである。海の向こうでは「現代デザインの祖」であるアール・デコも生まれていた。

結局のところ、それは━━いつの時代もおおむねそうであるように━━「暗い時代」というより、暗い要素もあれば明るい要素もある時代だったのではないだろうか。そこには涙や嘆きもあれば、希望のまなざしの中で迎えられたものもあったはずである。

それに、大衆は時代をわかりやすい形でなど反映しない。政治や株価がどうであろうと、大衆は「それはそれとして」で、それぞれの前にあるそれぞれの道を銘々に歩む。ゴーイング・マイ・ウェイ。俯瞰的に見れば、どことなく不気味で、したたかで、捉えどころがない。それが日本の大衆だと思う。乱歩は本作の題「陰獣」について、「おとなしくて陰気だけれど、どこやらに秘密的な怖さ不気味さを持っているけだもの」と語った。それは「大衆」の別名であるかもしれない、と私は思う。

作品情報

・著者:江戸川乱歩
・発行:博文館、他





 

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