現代において私達が『サラダ記念日』を「歌集」という形で真っ当に受け取ることは、恐らく圧倒的に困難だと思う。というのも、私達の多くは、図書館や本屋で『サラダ記念日』を手に取るより(たぶん)先に、学生のうちに国語の授業などで「俵万智の『サラダ記念日』」を学習するからである。それは同歌集が日本の文学史上で堅牢なポジションを既にキープしたことを学徒達に暗示するとともに、本書を「一歌集」から「歴史の一事実」に置換してしまう。その是非はこの場で論じない。現在の私達にとって、いかなるバイアスも介さず真っ新な状態で『サラダ記念日』と出合うことは極めて難しい。ここで述べるのは、さしあたりそれだけである。
そんな私達がまず留意せねばならないのは、俵万智は歴史上の人物ではないということである。彼女は1962年の大晦日に大阪で生まれ、1985年に早稲田大学文学部を卒業した、2021年現在も現役の歌人なのである。夏目漱石や鴨長明のような「過去の偉人」では決してない。ちなみに俵は大学時代、アナウンス研究会に所属しており、フジテレビの軽部真一アナウンサーは同研究会での同期にあたるという。
で、話は『サラダ記念日』である。
本書は1987年5月に河出書房新社より刊行された、俵万智にとって初めての歌集である。初版発行部数はわずか3千部ほどだったというが━━これでも歌集としては多いくらいの数字だと思うけれど━━、ふたを開けてみれば驚きももの木、250万部を超える大ヒットとなった。歌集としては異例中の異例と言える数字で、本書は同年のベストセラー1位の座に就いた。
なぜ本書はここまでヒットしたのだろう。たしかに俵は短歌界の期待のホープではあった。早稲田大学を卒業後、関東で高校の国語教員を務めながら彼女は歌人として頭角を現していた。1985年には角川短歌賞次席、翌年には同賞を受賞するに至り、角川書店(当時)が刊行していた『月刊カドカワ』で連載も持っていた。そんな「若きホープ」の処女歌集となれば、それなりに売れることは見込めよう。
しかし、それはあくまでも「それなり」のはずである。多少ヒットする要因はあったとしても、そもそも歌集とか詩集とかいったもの自体、そうそう売れるものではない。実際、前年の1986年にヒットした書籍といえば、細木数子の占い本や渡辺淳一の恋愛小説、あるいは野球解説者からタレントに転身した板東英二のエッセイなどであった。だからこそ、本書の初版発行部数は3千部ほどに設定されたのだし、社長自身が俳人でもあった角川書店は、本書を自社から刊行しようとは考えなかった。
ヒットした要因のひとつに「俵が素晴らしい歌人だったから」はあるだろう。彼女の才気溢れる短歌があってこその『サラダ記念日』のはずで、そこを否定する気は毛頭ない。とはいえ、ただ素晴らしい歌人であるだけでは200万部超という数字にはそうそう届かない気がする。そこには「時代の趨勢」という後押しがあったのではないか。私はそう考える。
1987年とはどういう時代だったのか。それは「昭和」が終わりかけていた頃である。もちろん当時の人達は、具体的にいつ昭和が終わるかなど知る由もない。しかしこの年は、後に「バブル景気」と名付けられる未曾有の好景気に突入した年であり、また1985年の男女雇用機会均等法成立が象徴するように、それまでは日陰の存在だった女性達が、加速度的に(社会全体において)存在感を増していった時期でもある。間違いなく「今まで」は終わりを告げ、日本社会は新しい局面を迎えていた。それをリアルタイムでどれくらいの人が感じていたかはわからないが。
新しい時代には、今までと違うところから吹く「新しい風」が望まれる。それで短歌という、それまで社会からほとんど見向きもされなかった領野に彗星のごとく現れた「新進の若き女性歌人」が社会の耳目を集めた。そういう要素はあったのではないかと思う。この年の9月には、それまで一部の人達に人気を博するに留まっていた村上春樹が、長編小説『ノルウェイの森』を上梓し、上下巻それぞれが200万部超のセールスを記録した。
・「この味がいいね」と君が言ったから 七月六日はサラダ記念日
有名すぎるこの歌は、やはり本書を代表する短歌であろう。どこの誰が決めたかもわからない記念日によりかかるのではなく、極めて素朴でささやかな、個人的な嬉しいことを記念日の根拠にする歌。村上春樹は、エルサレム賞を受賞したときに「システムに我々を利用させてはなりません。システムを独り立ちさせてはなりません。システムが我々を作ったのではありません。我々がシステムを作ったのです」(※)と受賞スピーチで述べたが、村上のポリシーに通底するものがこの歌にもあるように思う。
俵万智と村上春樹━━この2人のそれぞれの最大のヒット作が、同時的に世に出た。言うまでもなく、それは偶然である。しかし私には、それが時代の目印でもあるかのように思えるのである。
※・・・『村上春樹 雑文集』(新潮文庫、2015年)p100