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『新古今和歌集』
後鳥羽上皇(法皇)による勅撰和歌集

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『新古今和歌集』あるいは『新古今集』は13世紀、鎌倉時代に成立した勅撰和歌集です。勅撰和歌集というのは、皇族の命令で公的事業として編纂された和歌集のこと。日本で初めての勅撰和歌集『古今和歌集』が編まれたのは平安時代ですが、『新古今和歌集集』は鎌倉時代です。

長らく続いた平安時代が終わりを告げ、鎌倉幕府の開設とともに鎌倉時代が始まるのが12世紀終盤。この頃、それまでの貴族政治は堕落と腐敗の極に達していて、だからこそ貴族に愛想を尽かした武士(当時の下級役人)による武家政権が発足します。この武家による政府のことを「幕府」といい、王朝貴族による政府のことを「朝廷」といいます。

よその国の歴史であれば、武家政権が新たに誕生した以上は、それまで国政を担っていた朝廷貴族は皆殺しにされるのが常です。そうしなければ、武士達の権力基盤が確立しないからです。ところが、不思議なことに、日本では幕府が成立しても、武士達は王朝貴族を抹消しようとはしませんでした。あくまでもトップは京都の「朝廷」で、幕府は、建前としては二番目に偉いに過ぎない。そういう序列がキープされました。いつまでかというと、なんと江戸時代の終わりまでです。

もちろん、これはあくまでも建前の話です。実務的に政治を担うのは幕府で、だから13世紀以降には、幕府のある鎌倉が栄え、朝廷のある京都は相対的に没落することになります。

ここで幕府に反旗を翻したのが、当時の朝廷のトップ後鳥羽上皇です。彼は、鎌倉幕府が源氏政権である間(鎌倉幕府の最初の将軍三人は、源頼朝とその子供達でした)は、幕府が政権を担っていても辛抱していました。源氏はもともと京都の役人一族ですから、上皇にとっては「源氏=朝廷の身内」だったのかも知れません。ところが、1219年に三代将軍の源実朝が暗殺され、源氏以外の人間が幕府のトップに就くと、ブチ切れます。「おまえら田舎の野蛮人に政治は任せておけん。政権は朝廷に返してもらう」と。そうして、彼は幕府に戦争をふっかけます。これが承久の乱(1221)です。

結果は後鳥羽上皇の敗け。後鳥羽法皇(彼は流刑になる直前に出家して法皇になりました)は隠岐の島へ、息子の順徳上皇は佐渡へ、流されてしまいます。この隠岐で法皇は「やれやれ、戦には敗けちゃったな。でも私にはまだ文化の担い手という役割があるんだ」とばかり、以前から計画していた勅撰和歌集の完成を目指しました。そして出来たのが『新古今集』で、だからこの歌集には「隠岐本」という別名があったりもします。

鎌倉時代前期、文化はまだ朝廷のものでした。なんせ朝廷がろくに政治なんかやらなかったものですから、治安は荒れるばかりで、町民は食うや食わずやの暮らしだったのです。当然、文化なんか芽生えようがありません。「文化の前にまず生活だ!」で、だから朝廷のある京都は、「こんな町住んどれんわ」で住民に逃げられ、人口減で没落してしまう。町民文化が勃興するのは、町民の生活がそれなりになる鎌倉時代から室町時代にかけてのことで、つまりもう少し後の時代の話です。

桜さく遠山鳥のしだり尾の ながながし日もあかぬ色かな

『新古今集』の編纂を命じた後鳥羽院が詠んだ歌です。さすが文化の担い手を自負するだけのことはあります。ご賢察のように、これは『万葉集』で柿本人麻呂が詠んだ「あしびきの山鳥の尾のしだり尾の ながながし夜をひとりかも寝む」という歌をベースにしています。いわゆる“本歌取り”ですね。

後鳥羽院の歌は「桜が咲いているなぁ、いいなぁ、一日中見ていても飽きないなぁ」と言っているようなものです。柿本人麻呂が詠んだのは、独り寝の長さに対するうんざり感でもありますが、後鳥羽院は「飽きないよなぁ」と言ってしまうんです。悠々としているというか、超然としているというか。さすがなお人ではありましょうね。

ちなみに、柿本人麻呂の歌は「山鳥」で、後鳥羽院のは「遠山鳥」です。この違いが何を意味するのかというと、後鳥羽院にとって山鳥は遠い。つまり、彼がいるのは侘しい山から離れた都会なんですね。その都会のど真ん中で、桜を一日ぼうっと眺めていられる余裕がある。そういう「優雅の極み」を詠んだ歌でもあるんです。超然としているでしょ? まぁ朝廷のトップがそういう人であれば、王朝政治は腐敗もするわな、という見方もありましょうが。

作品情報

・撰者:藤原定家、他
・発行:角川学芸出版、岩波書店、他





 

『新続古今和歌集』
もしくは日本の中近世の政治史