夏が来る。きっと夏は来る。そんな季節になってきましたね。ちなみに今年は(大阪の話ですが)5月の段階で早くも30℃を突破しました。もう夏です。来ると言うより、もう来ている。役所も役所で、臨機応変にプール開きとかにしてくれればいいんですが、そういう融通が利く役所は、少なくとも大阪にはありませんな。
で、プールと言えば、個人的にはこのエッセイが浮かびます。高橋秀実さんの『はい、泳げません』(新潮社)です。雑誌『考える人』の連載をまとめたもので、2005年に書籍化、2007年に同社より文庫化されました。残念ながら2019年現在は絶版になっていますが、町の図書館や古本屋には、たぶんそれなりに出回っているんじゃないでしょうか。
高橋さんは神奈川県に住む、当時40代の男性です(漢字表記だけだと女性と思う人もいるかもしれない)。彼の職業はノンフィクション作家ですが、それはそれとして、タイトルにあるように彼は泳げません。正確に言えば水が怖い、いわゆる水恐怖症です。本書は、そんな彼が一念発起し、泳げる人になろうと水泳教室でレッスンを受ける、その一部始終をまとめたドキュメンタリーです。各章の終わりには、「桂コーチのつぶやき」と題して、彼をコーチングした元水泳選手の高橋桂女史が「つぶやき」を寄稿しています。
それにしてもタイトルが秀逸です。だって「いいえ、泳げません」ではなくて「はい、泳げません」なんですよ。変でしょう。肯定しているのか、否定しているのか。この一見矛盾する物言いについて、高橋さんは別のところで、こう語っていました。
「(略)英語では『Yes』なら続くのは肯定の『can』で、否定形の『can’t』がくることはない。しかし日本語の場合は、『はい』の後にも否定形はくる。『いいえ、できません』と言うと角が立つので、むしろ『はい、できません』と答えるほうが自然なのである。そう、私たちは否定する時も、相手に同調しながら否定するのである」
(髙橋秀実『結論はまた来週』角川書店、2011年、p89)
なるほど。肯定と否定を織り交ぜる、それが私たちの習いだと。そう言われてみるとそんな気がしなくもありません。たとえば「いや、大丈夫です」とか、あるいは「うん、もうダメだね」とかいった表現は、我々の日常ではそんなに珍しくないと思います。それにこの「肯定と否定を織り交ぜる」のって、高橋さんが「作家」である所以なんじゃないかな。そんな気がします。
作家は、肯定も否定もしません。言葉を紡ぎながら、ただ事実や物語を「見つめる」。それが作家なのだと思います。たとえばスタンダールは『赤と黒』で不倫を描きました。でもそれは別に不倫を肯定しているのでも、否定しているのでもない。そっと見つめているだけです。それが「作家」という人種が採るスタンスなのです。テレビやネット上で口角泡を飛ばして何かを批判したり、逆におもむろに称えたりする作家も(中には)いますが、そういう人たちは、思想家やイデオローグ、コメンテーターではあっても作家ではない。私はそう思っています。
高橋さんはノンフィクション「作家」ですから、安易に結論付けようとはしません。対象と付かず離れずで話を進めます。ただし、話が進まないこともままあります。「付かず離れず」とは換言すれば「どっちつかず」ということですから、どうしても(悪く言えば)グダグダ感が出てしまうのです。たとえば、以下、彼の小学生時代の述懐━━。
「私が『ウソをつく』ことを覚えたのも、プールを巡ってである。
『海水パンツを忘れました』『帽子を忘れました』を繰り返し、二種類ではバレるので、時折『具合が悪い』を折り込む。プールに入ることを思うと、本当に気持ちが悪くなったので、正確にはウソではない。忘れ物にしても『わざと』ではあるが『忘れた』のであって、持ってきたのに『忘れた』とウソをついているわけではない。でも『わざと』だからな。もっと『自然に』忘れないとな。登校前に海水パンツを握りしめ、私は自問自答した。今日に至る私の自我は、こうした中で形成されたと言えるだろう」
(高橋秀実『はい、泳げません』新潮社、2005年、p11)
また、本書で彼は、水泳教室のみならず、水族館の職員にまで取材します。泳げる人というのは魚に近い、ならば魚に詳しい人に話を聞こう。そういう理路らしいのですが、泳げる身からすると、「なんでそうなるの?」と苦笑してしまいます。でもこれが、作家である高橋さんなりの、水泳という営為を「見つめる」やり方なのでしょう。決してプールがイヤで逃げ回っているのではないはずです。たぶん。
「おいおい大丈夫かよ、その人。そんなんで泳げるようになるのかよ」。そう思われるかもしれません。実際どうなったのか? 読んでみてください。