もしかすると個人的な思い込みかも知れませんが、島崎藤村の『夜明け前』というと、おおかたの人は「国語の文学史の授業でなんかそんなの習ったなぁ」と思われないでしょうか?
いや、別にそういう現状をどうこう言うつもりは毛頭ありません。島崎は先の大戦中に物故していて、彼の『破戒』や『夜明け前』は、今となっては古典と言わないまでも準古典くらいにはなっているんじゃないかと思いますから。ただそうなると、現代では彼の作品が面白いか否かは大して問題にならないのではないかとも思います。
というのも、感想は読者によってまちまちです。そうですよね? 面白いと言う人もいれば、古臭くてやだと言う人もいる。十人十色です。でもそれとは別に、彼はもう歴史(文学史)に名を残しています。だから文学史の授業で彼の名前や作品名が出てくる。つまり現代では、島崎は最早小説家というより「教養」や「権威」になっている感があるのです。それなら現代で重要なのは、島崎がどういう人で、どういう経緯で自身最後の小説『夜明け前』を執筆するに至ったかではないか、と愚考するのです。
島崎藤村とはどんな人だったのか?
島崎藤村は明治5年(1872)に、現在の岐阜県に生まれました。この藤村というのはペンネームで、本名は島崎春樹といいます。彼は小説家として活躍し、昭和18年(1943)に物故します。本作『夜明け前』は島崎の晩年の作品で、雑誌「中央公論」上に昭和4年(1929)から10年(1935)年まで、断続的に掲載されました。書籍としての刊行は、中央公論社からではなく、新潮社からだったみたいですが。
文学史で習うとき、島崎は「自然主義の代表的作家」と語られることが多いと思います。でもこの「自然主義」って、個人的には意味がピンときません。現代ではあまり使わない言葉ですし。
自然主義とは何か? 端的に言うと「自らを悲劇の主人公に擬して、自らの悲惨を情感たっぷりに訴える文学」です。若干(かなり)うっとうしい感もありますが、ここで言う悲惨の多くは、肉欲がらみのことだったりもします。というところで、ここからは島崎藤村の話です。
20歳で女学校の教師になった島崎は、教師生活2年目で教え子に手を出して辞職。その後、紆余曲折を経て25歳になった島崎青年は詩人としてデビューします。そして詩や小説など文芸の世界で、目覚ましい成果を挙げました。小説『破戒』が自費出版されたのは、彼が34歳になる年のことでした。しかしなかなか順風満帆には行かないのが世の常で、この時期、彼の家族は度重なる不幸に見舞われます。
彼が30代のとき、彼の娘と妻が相次いで亡くなりました。残された島崎や、その子供達は困ります━━「家のことどうしよう?」です。そこで島崎の姪が家事手伝いで来てくれることになるのですが、40歳になった島崎は、その姪と肉体関係を持ち、あろうことか妊娠までさせてしまいます。ここでもやはり「どうしよう?」と島崎は困惑して、お腹を大きくした姪を残し、フランスへ逃げ出してしまいます。
これだけでも「おい、お前」な人ですが、さらに話は続きます。
いつまでも逃げていられるものではないと観念したのか、3年ほど経ってから島崎は帰国するのですが、帰国後、彼はどうしたか? 姪との愛人関係を再燃させちゃうんですね。「何やってんだ」って話ですが、いい歳の島崎は、自ら進んで「どうしよう?」の泥沼に足を踏み入れるのです。やがて40代後半になった島崎は、『新生』という小説を発表します。その内容は、なんと姪との関係をそのまま書き綴ったものでした。なぜそんなことをしたのか、島崎の思惑はわかりません。確実なことは、姪にしてみればそんな事情を赤裸々に公にされるのは迷惑千万であったということで、いたたまれなくなった彼女は台湾へ移住してしまいます。
「これまでの泥沼的状況が清算できて、さっぱりした」と島崎が思ったかどうかは知りませんが、その後島崎は、婦人誌「処女地」を創刊し、そこの編集者であった24歳年下の女性と再婚します。それが昭和3年(1928)のことで、そして悠々とした島崎は、自身の父をモデルにしたという『夜明け前』の執筆にとりかかるのでありました━━めでたし、めでたし。