『雪国』
川端康成が描く、日本人の自然哲学
「ナチュラリスト」という言葉があります。広く自然を愛する人という意味で使われていますが、元々は中世の時代、アリストテレス自然学が自然哲学(現代日本で言う自然科学と思って下さい)と博物学の2つに分化し、その後者に携わる人を意味するものでした。
とはいえ、そんな難しい定義は、少なくとも日本人が感じるところの自然哲学においては似つかわしくないのではないか。川端康成の代表作『雪国』に触れていると、もっと大いなる自然の哲学を身近に感じ、そんなふうに思わされてしまいます。
12月のある日、雪国へと向かう汽車に、小太りの男が1人乗っていました。男の名字は島村。東京に妻子を持つ身で、親の遺産と翻訳家のマネ事で暮らしていますが、旅が趣味みたいです。汽車の中には、島村の他に、病気の男が介添えの若い女性を連れて乗っていました。やがてこの2組は同じ駅に降り立ち、そこからある事件へと・・・というお話。
この小説で描かれ、感じる自然哲学とは、ひとことで言えば、「日本人としての、自然に正しく包まれる姿」ではないでしょうか。男と女の情事などもありますが、大いなる自然の前では、そんなのはちっぽけなもの。男と女が出会うのも、愛するのも、すれ違うのも、残酷なほど他愛のないワン・シーンでしかありません。降る雪は、ただそんな人たちの儚い心を包むかのように、そこにあるのですから。
今日、日本人は自然との折り合いを悪くする方向にあります。ために、自然もまた、我々に天災という形で牙をむいているかのように見えます。それは天然モノを食べるだとか、アウトドアにいそしむなどでは、到底解決しえません。「もっと大きな流れを感じ、その中に体を預け、あきらめながら生きてみては?」という提言すら、この小説からは感じてしまいます。
島村は妻子ある身ですが、そんなものは初めから存在しないかのように、他の女と夜を過ごします。しかし不思議と「女たらしの憎々しい男」という印象を寄与しません。それは、彼が自然の流れの中に身を置いているからではないでしょうか。生活と納税のために働き詰め、結婚という人為的な倫理に則るより、気分のままに旅に出、心魅せられる女がいればそれを抱く。それすら過ぎゆく景色の中のひとつに過ぎないのですから。
余談ですが、『雪国』を執筆した旅館(現在はホテルになっていますが)には、川端が逗留したという部屋「かすみの間」が今でも保管されています。
作品情報
・作者:川端康成
・出版:創元社(1937年)
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