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■ 3月31日から4月29日にかけて、時計をフィーチャーいたします。







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比叡山延暦寺
「(延暦寺の)空気」の研究

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「お寺や神社」というキーワードで浮かぶ都道府県。このお題に京都や奈良を揚げる人は多かろう。遠方の(たとえば北海道や沖縄の)人の中には「京都とか奈良って、右を見ても左を見てもお寺や神社がある感じでしょ?」と思っている向きもあるかもしれないが、もちろんそんなことはない。京都や奈良にも寺社が目に入らない景色はフツーにある。住宅街や繁華街、あるいは田園地帯などである。私は学生時代、京都市内の女の部屋に転がり込んでいたが、彼女の部屋から大学へと通う道中には寺も神社もなかったと記憶している。

そういう思い出話は脇に措くとして、こうなると京都や奈良の周辺地域にある寺社は、相対的にどうしても影が薄くなる。たとえば、滋賀で多くの人がまず思い浮かべるのは琵琶湖であろう。滋賀と聞いて寺社を連想する人はそう多くないはずである。しかし、近畿地方は古代日本の中心地だったので、滋賀にもポピュラーな寺院はちゃんとある。表題の比叡山延暦寺である。



比叡山延暦寺の中堂

出典:Enryakuji Konponchudo04n4272.jpg
from the Japanese Wikipedia
(撮影:2009年11月7日)


延暦寺といえば最澄が開いた天台宗の総本山である。が、そのポピュラリティの過半は、当寺の宗教的仔細や文化財に由来したものではあるまい。現代でもカリスマティックな人気を誇る戦国武将=織田信長によって焼き討ちにされたという歴史的事実。それが当寺を有名にしている一番の要因だと私は思う。

と、このあたりで今の若い世代がぽかんとしてしまう可能性は十分ある。なぜかというと、信長による焼き討ちは実は誇張された話で、延暦寺の施設の多くは信長の襲撃以前に既に廃れてなくなっていた。そう主張する歴史学者がいるからである。いわば前時代の歴史観に異議が申し立てられているわけで、そうなると歴史の授業で「比叡山の焼き討ち」を扱わなくなっていても、おかしくはない。つまり今の若い人の多くは「信長による延暦寺焼き討ち」を知らないかもしれないのである。

まぁしかし、織田信長が一五七一年に当寺を襲撃したのは間違いないところである。

もっとも、この事件を深く掘り下げて説明するつもりはない。この「延暦寺焼き討ち事件」について、論客の立場は二分するしかない。すなわち、焼き討ちを「妥当とする派」か「ありゃヒド過ぎっスよ派」かである。そして私は前者に属する。それで終いである。

当時の信長の年齢は三十代後半。家督を継ぎ、周辺地域の有力政治家とパイプを構築するなどもあらかた済ませ、ごたごたが続いたお家騒動もなんとかケリがつき、一家の頭目としてもう単なる「尾張のバカ殿」ではいられなくなった頃である。とはいえ、世相は群雄割拠の戦国時代であるから、尾張の外には織田家と敵対する勢力がいくらでもあった。気の休まる時が訪れない。延暦寺を焼き討ちにしたのは、そういうデリケートにならざるを得ない時代の信長で、だから私は、この襲撃にはそれなりの必然があったはずと考える。

当時は「僧兵」という言葉があったように、僧侶は兵隊で、仏僧が集まる寺は今でいう「武装勢力」でもあった。信長は一地方の有力政治家で、延暦寺とは政治的に対立している。相手が武装勢力である以上、その対立が度を越せば、彼らの拠点を襲撃するという方策もやむを得ないと思う。ちょうど、武装した反政府テロ組織を政府軍が攻撃するように。

「非武装」とは、相手に攻撃の口実を与えないという点で「一つの防御策」であり得るのだが、私の話はそういう所には行かず、「延暦寺が信長と敵対して焼き討ちにされたことは何を意味するのか?」に向かう。

結論を一言でいうなら、それは「延暦寺ってKYじゃない?」である。KYはもちろん「空気が読めない」の意である。後世の現代人からは、信長は時代の追い風を背負った「革命の人」のように見える。そういうイノヴェーティヴな人だから、当時は彼を「問題児」と見る向きもあった。織田家と同盟を結んだ斎藤道三などは信長を肯定的に評価していたらしいが、つまり信長に対する評価は二分していたわけで、それは延暦寺サイドに「信長に付くのと反目するのと、どちらが自分達の利になるか」を考えることを強いる。別言すれば時代の趨勢を読めるかどうかで、延暦寺はこの二択を誤った。だから「時代の空気を読めないKY」を疑うのである。



琵琶湖から眺める比叡山

出典:Hieizan biwakogawa.JPG
from the Japanese Wikipedia
(撮影:2016年1月24日)


二〇一六年四月、延暦寺会館副館長の男性僧侶が、二十代の修行僧三人に暴行を加え、被害者の一人は鼓膜が破損するほどの重傷だったことが報じられた。立派な暴行事件であるが、発覚後も同寺は加害者の素性を明らかにせず、刑事告訴もしなかった。昭和の時代ならともかく、二〇一〇年代の日本では、この対処は組織として明らかにNGである。しかし彼らは、時代の空気を無視して自分達のエゴセントリックなあり方を優先した。私にはそう見える。延暦寺のエートスは、十六世紀の昔も、二十一世紀の今でも、変わっていない。それを日本人がなんとなく許容してしまうのは、宗教を「よく分からない」と多くの人が思い込み、宗教に対して及び腰になりがちだからであろう。だから宗教を特別視せず、ひるまなかった信長は、今でも英雄視されるのだと思う。






 

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