日本近代史の謎の一つに、十九世紀半ばの「神仏分離」がある。それまで千年以上も日本では神仏習合(神社と寺院がごっちゃになっていること)が当たり前だった。しかし明治維新に伴い政府は、習合体制をやめて神社と寺は別々になるように号令をかけた。一八六八年の神仏分離令である。これに端を発し、寺院や仏像を破壊する「廃仏毀釈運動」が全国的に相次いだ。
それの何が謎なのか。国が神道と仏教の分別を画策した動機はこれまでも説明されてきた。ただ、日本人はそれまで気が遠くなるほどの年月を、神仏習合でやってきたのである。それなら神仏分離令は、一種の宗教弾圧でありまた国民の生活習慣への不当な介入でもあるとして、政府に反抗する運動が見られてもおかしくはない。が、実際には庶民も僧侶もほとんど無抵抗のまま、新政府の命令に唯々諾々と従ったのである。不自然といえば不自然な話だろう。そしてこの不自然さを雄弁に語るのが、現在の奈良県奈良市内にある興福寺だと私は思っている。
興福寺の東金堂と五重塔
出典:Kofukuji12st5s3200.jpg
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(撮影:2010年4月24日)
ここで話は一旦、六四五年の「大化の改新」まで遡る。無事故の子づくり、もとい無事故の世づくり=大化の改新。この語呂合わせを学生時代に聞いた人は数知れずいるだろう。でも具体的に「大化の改新」がどのような政策だったのかは、社会の授業では大して触れないと思う。
大化の改新は、言ってみればクーデターである。これまでは豪族が政治の中心だったけど、もう豪族とか排して、これからは皇族主導で政治をやっていこうぜ。そういう行政改革である。具体的には、当時の天皇を擁立していた豪族の蘇我氏(=蘇我さん)を殺して、権力者の座を中大兄皇子(後の天智天皇)と藤原鎌足が奪取し、時の天皇に明け渡したのである。かくして、晴れて天皇が政治的頂点に君臨し、そのことの象徴として元号が制定された。記念すべき最初の元号は「大化」で、六四五年は大化元年なのである。
これは飛鳥時代(西暦五九二~七一〇年)の話である。歴史が教える通り、やがては藤原鎌足の子孫である藤原氏が実質的な権力を持つようになり、天皇は再び「形式上のトップ=傀儡」と化すのだが、それは後の話で、取り敢えずは飛鳥時代。飛鳥時代は仏教が流行り、政治家がこぞって「仏様の御加護による国家の安寧」を求めた時代である。
だもんだから、飛鳥時代あたりから、有力者達はやたら寺を作るようになる。大化の改新の二十三年前に物故した聖徳太子などはその適例だろう。当時首都だった奈良や、後の遷都先になった京都に今でも寺が多いのは、ひとえにこうした事情によるのだが、興福寺もこの飛鳥時代に開基された寺である。
興福寺が開基されたのは六六九年。この年、五十代半ばだった藤原鎌足は落命するのだが、まだ存命だった鎌足の快癒を願って京都に建てられた寺を、鎌足の息子=藤原不比等が平城京遷都(七一〇年)に伴い、現在の場所へ移転したのが当寺である。宗派は法相宗で、本尊は釈迦如来。
2018年に再建された興福寺の中金堂
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(撮影:2018年10月29日)
鎌足と中大兄皇子がクーデターを起こした六四五年は、インドを行脚していた三蔵法師が唐(中国)に帰国した年でもある。中国の小説『西遊記』に出てくる三蔵法師は実在した唐僧で、彼は仏教の唯識論と経典を持ち帰ったという。それをベースに三蔵の弟子が作った宗派が「法相宗」である。
三蔵の帰国から数年ほどが経ち、現在の大阪府から一人の僧侶が遣唐使として中国へ渡り、当地で三蔵の教えを受ける。彼は帰国した後に、その教えを拡散するのだが、この過程で法相宗も日本に上陸した。今でこそ法相宗はそんなに目立つ宗派ではないが、飛鳥時代の日本においては「流行の最先端」みたいな位置づけだったのかも知れない。興福寺は法相宗の大本山にあたる。
まぁ宗派はともかく、興福寺が藤原家にとって大事な寺だったことは確かで、その藤原氏はほどなくして朝廷(当時の日本政府)を私物化するほどの権力を持つ。それに伴い、興福寺も権勢をふるうようになった。広大な領地を有し、大いに政治的影響力を行使したのである。古代から中世において寺社とはそういう「政治団体」でもあって、当時はセコムも警察も日本ボディーガード協会もないから、仏僧も武装する必然があった。寺社は今でいう「武装勢力」で、興福寺は比叡山延暦寺と並ぶ「近畿の一大勢力」だったと伝えられる。
ちなみに、延暦寺は織田信長と敵対したことで退潮を余儀なくされたが、興福寺は信長と同盟関係にあった。その後、豊臣秀吉による刀狩令で武装解除させられた後も、当寺は地域でそれなりに存在感を持っていたと聞く。
興福寺とはそれほどの寺院で、それが廃仏毀釈運動によって廃寺同然に追い込まれる。寺領は没収されて奈良公園にされ(だから興福寺は現在、奈良公園の中にある)、寺内の堂塔もことごとく破壊された。天平時代から伝わる仏像も薪にして燃やされたし、千年以上の歴史を持つ五重塔も二束三文で民間に払い下げられた。今は国宝指定されている阿修羅像も当時、破壊運動のどさくさで腕がクラッシュしたという。
私は熱心な仏教徒ではないが、それでも第三者的に見て、ひど過ぎやしないかと思う。たぶん、大半の人はそう思うだろう。にもかかわらず、当寺の僧侶も周辺の檀家も組織的に抵抗した様子がないのである。不自然さは際立つばかりで、得心が行く説明は未だ提示されていない。
奈良公園の鷺池と、平成初期に修復された浮見堂
出典:浮見堂.JPG
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(撮影:2011年4月17日)