過日、東慶寺を舞台にした松竹映画『駆込み女と駆出し男』の記事を叙した。しかし、東慶寺の記事はない。じゃあ書こう。そういうわけで東慶寺である。神奈川県南部にある鎌倉市、その山ノ内という地域にある臨済宗のお寺。東慶寺を端的に説明すれば、そうなる。京都や奈良と同様に、鎌倉には古くからの寺院が数多くあり、それが観光名所にもなっている。東慶寺も現在では鎌倉の観光名所の一つとして有名かもしれない。
円覚寺から見た東慶寺
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from the Japanese Wikipedia
(撮影:2013年3月6日)
なぜ京都や奈良と同様、鎌倉に古刹が多くあるのか。ご承知の通り、平安時代までは京都や奈良が首都だった。しかし1192年、後白河法皇の死と共に平安時代は終わり、同時に鎌倉幕府が開かれた。鎌倉幕府の祖と言われる源頼朝は征夷大将軍で、つまりこの時点で日本は「天皇を頂点とする朝廷」と「征夷大将軍を頂点とする鎌倉幕府」のツー・トップ体制になったわけである。
歴史の授業では、おそらく鎌倉時代から江戸時代まで天皇が出てこない。代わりに「将軍」が権力者として紹介されていると思う。しかし、だからと言って天皇制がなくなったわけではない。天皇制は現在に至るまで
縷々として続いていた。ただ、歴史の表舞台で目立たなくなっただけである。
ツー・トップ体制になったということは、京都と鎌倉の2つが首都になったということでもある。それで鎌倉時代には鎌倉で数々の寺院が開基された。宗教は本来、人を救済するもので、つまり人を相手にして初めて宗教は成立する。これは仏教もキリスト教もユダヤ教も変わらない。だから人が集まる首都では宗教も盛んになるのである。
東慶寺の創建は1285年。当寺を開基したのは、鎌倉幕府第9代執権、北条貞時と言われているが、開山したのは彼の母であり、第8代執権、北条時宗の正室であった覚山尼である。1285年当時、貞時は13歳、覚山尼は33歳だった。その前年の1284年に、彼女の夫、時宗は執権の座を貞時に譲り、他界している。とすれば、覚山尼が当寺を開くにあたり、必要な経済的支援を(執権の座に就いた)息子の貞時がしたと見るのが、まぁ妥当であろう。
東慶寺の参道(初春)
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from the Japanese Wikipedia
(撮影:2013年3月9日)
覚山尼と時宗の夫婦仲は、おおむね良好であったと伝えられる。だからこそなのか、彼女は夫の暴力に苦しむ女性の救済に勤しんだとも言われる。そうした彼女のスピリットを後世の人々が継承し、東慶寺は「縁切寺」になったとも。縁切寺とは何かというと、わけあって夫と離婚したいのだけどできない女性の離婚を調停する寺院のことである。人によっては「駆け込み寺」ともいう。江戸時代には、東慶寺は幕府公認の縁切寺になっていた。
なぜ「わけあって夫と離婚したいのだけどできない女性」がいたのか。当時の社会が男尊女卑を前提に設計されていたからか? そう言う人もいるが、調べてみると、どうもそうではない。男尊女卑という概念が社会制度に採用されたのは明治時代以降のことである。その証拠に(というか)明治以前には女性の天皇が何人もいた。東慶寺が幕府公認の縁切寺になっていた江戸時代にだって女帝(女性天皇)は存在したのである。そもそも、男尊女卑が社会の大前提なら、幕府が縁切寺を公認したりはしないだろう。
当時は「男か女か」よりも「身分」のほうが重要視された。だから百姓の家の出である豊臣秀吉が関白になったことは、例外的な出世話として成立するのである。鎌倉幕府を開いた源頼朝にしても、彼はティーンの頃に流刑に処され、流された伊豆の地で北条政子と出会い、結ばれたと言われているが、彼はもともと「清和源氏」という名家の出で、つまりはサラブレッドであった。もし彼が流人の立場になかったら、地方豪族の娘に過ぎない政子を継室に迎えることは十中八九なかったろうと目されている。それくらい、当時の世間では身分が徹底されていたのである。
つまり、明治以前の日本は「差別の基準を、性別ではなく社会的身分に置いていた」のである。さすれば、当時、身分の低い家の女が、自分の家より身分の高い家の男に嫁いだ場合、どれだけ夫が身勝手で不潔なドメスティック・ヴァイオレンス野郎であっても、妻にはどうすることもできなかったであろうことは容易に推察できる。逆に、身分が対等であれば性差はないも同然であったのか、戦国時代の噂話を集めた『醒酔笑』には、夫に暴力をふるう妻の姿が描写されていたりもする。
ともあれ、覚山尼は「夫の問題で苦しむ女性」の味方であり、彼女が開山した東慶寺はその後、駆け込み寺として公認されるまでになった。そう伝えられている。欧米でフェミニズムが
興ったのは18世紀頃であるが、日本では、それより遥か昔から「フェミニズム的な精神」はあったのかもしれない。