洋菓子のヒロタが自社製のシューアイスを販売し始めたのは1964年のことだった。高度経済成長のまっただなか、第一次東京オリンピック大会の年。
と、切り出しておいてナンだけれども、「そもそもヒロタって何よ?」とか、あるいは「シューアイスって何?」といぶかる人だって、読み手の中にはいると思う。順番に説明していくとしよう。
洋菓子のヒロタとは何か? 1924年に廣田定一が大阪市内で創業した菓子メーカーである。当初は大阪市内の自宅の一部を工場にカスタマイズし、洋菓子の製造、販売を商っていた。商売はなんとか軌道に乗り、1935年には、ヒロタの看板商品であるシュークリームを販売開始。翌1936年には、大阪市内にアイスクリーム工場を開設する。
現在(2020年)50代以上の方であれば、「ヒロタのシュークリーム」に特別な感情をお持ちの方は(関西には)結構いるのではないかと思う。それくらい、同社のシュークリームは昭和の時代に一世を風靡した。ただ、輝かしい時代はそうは続かない。ヒロタもまた然り。彼らはバブルの荒波や後継者争いという憂き目を経験し、2001年に民事再生法を適用されるに至った。そのあたりの事情は、改めて後述する。
ここで「ヒロタの歩み」をいったん離れ、「シューアイスとは何か」を語るとしよう。シューアイスとは、(簡単に言えば)シュークリームの生地の中に、クリームの代わりにアイスを詰め込んだ冷菓である。このシューアイスを開発したのはヒロタで、もともとはシュークリームの売上が夏場は落ちるということで、売上を補うべく開発された季節限定品だったという。
このシューアイスは、ヒロタのシュークリームと同様、昭和の時代に広く人口に膾炙した。そのままシュークリームとシューアイスを堅実に製造、販売し続けていれば、もしかしたらヒロタの没落はそこまでの規模にはならなかったかも知れない。
資本主義というのは、端的に言えば「金貸しの論理」である。金貸しにとって世の中には2種類の人間しかいない。すなわち「金を借りて、返済能力のある人間」と「返済能力のない人間」である。だから金貸しは、後者にはなるべく金を貸さない。いわゆる「貸し渋り」。
しかしバブルの時代は金回りの良い時代である。そうなると「返済能力がある人間」は、往々にして、そもそも金を充分に持っている。つまり、わざわざ借金する必要がない。金貸しとしては金を借りてくれる相手がいないと廃業だから、勢い、返済能力のあるなしの審査がぐっと甘くなる。誰彼問わず金を貸してしまう。これがバブル期の金融機関の実相である。
とはいえ、「返済能力がない人間」は、あくまで「返済能力がない人間」でしかない。だから、貸した金が金貸しの手元に返ってこないという事態はあたりまえのように到来する。バブル崩壊の前後、銀行が不良債権を大量に抱えたというのはこういうことである。
バブル期、金貸し(金融機関)はヒロタにも多額の金を貸した。ヒロタはその金で工場を新しく増設したり、飲食店事業に乗り出したりした。ともすれば、融資担当者が新規投資を奨めるなどもあったかも知れない。しかし、それらはことごとく裏目に出た。手を広げ過ぎたヒロタは、バブル崩壊後には、何十億もの借金を抱える赤字企業になっていた。そして2001年には経営破綻し、民事再生法を適用する。
加えて、創業者亡き後には、お定まりの後継者争いがあった。ヒロタは定一の長男が後を継いだが、三男はそれに難色を示し、お家騒動の挙げ句、シュークリームを売りにする「ヒロタ」を別途創業した。当然、その名前がヒロタからすればまぎらわしいということで裁判沙汰にもなった。結局、新しいほうのヒロタが名前を「大阪ヒロタ」に改称するということで、なんとか和解に至ったものの、ほどなく大阪ヒロタは(ヒロタと同様に)経営破綻に遭い、そのまま廃業した。
ヒロタはその後、京都出身の女性投資家が社長を務めていた投資会社の子会社となり、2005年夏には民事再生手続きを終結させた。つまり、再生したわけである。彼女は少女時代にヒロタのシュークリームに親しんでいたらしく、再生の基本理念は「シュークリームやシューアイスなど、ヒロタの核となる商品は間違っていない。だからその基本を大切にしてシンプルにやっていこう」であったという。
ただ近年には、ヒロタの不採算店舗の大量閉鎖や、上述の投資会社の女性社長が山一證券出身の投資家に寝首をかかれ、社長職を解任されるなどのニュースも流れる。ヒロタの前途はいまだ予断許さず、かも知れない。