5月のとある晴れた日曜日の昼、私は、近所のコンビニの店内をうろうろしていた。もちろん、万引きをしようとか市場調査をしようとかでそうしていたのではない。単に、レジが混んでいたから、空くのを待つかと思いぶらぶらしていただけである。何の自慢にもならないが、私は「並ぶ」という行為が途方もなく嫌いなので。
そういう個人的な性向から店内を無目的に遊弋していたら、縦型のフリーザーの中に「復刻版ホームランバー」を発見した。そのすぐ左横の総菜コーナーでは、体育系の部活の帰りであろう、色気とは無縁のジャージ姿の女子校生2人組が昼食をどうしようかと談笑していたが、私の目は取り敢えずそちらには向かず、フリーザーの中で凍り付いていたホームランバーへと向かった。そして「うわ、懐かしい、まだあったんや」と思った。
「なんの話やねん!」と激昂される向きもあろうか。私は瞬間的にホームランバーを、懐かしいものと認識したということである。別に懐かしいと思う根拠とて、これと言って特にないのに。
「何が何だか」ではあるので、順番に行こう。まず「そもそもホームランバーとは何か」である。
サンフランシスコ講和条約に臨む吉田茂と日本全権委員団
出典:Yoshida signs San Francisco Peace Treaty.jpg
from the Japanese Wikipedia
(撮影:1951年9月8日)
時は1950年代半ば。1951年秋に調印されたサンフランシスコ講和条約で、日本はGHQの支配下を離れ、表向き主権国家になった(実態は現在まで続く「アメリカの軍事的属国」であるが)。1948年より続いた朝鮮戦争は1953年に停戦を迎えている。現在まで続く「韓国と北朝鮮間の愛憎交じりの分断」も、この頃に確立されたと言っていいだろう。また、上述の講和条約を調印した吉田茂が、GHQから公職追放に処されたものの連合軍が引き上げた途端おめおめと公職に復帰した政治家の鳩山一郎と、のちに「万年与党」と呼ばれるようになる自由民主党を結党したのもこの頃だった。
事程左様、1950年代半ばとは、さまざまな面で「現在まで続く事象の源」と目される時代である。言い換えれば、「日本を含めて世界は未だに20世紀半ばを引きずっている」でもあろう。ともあれ、そんな1953年に、やはり公職追放に遭いながらもGHQが引き上げた後に公職(政治家)へ復帰した吉田正は、協同乳業という会社を設立する。程なくして同社はミルク・アイスのバーを売り出して、世間で好評を博した。その商品名が「ホームランバー」と改められたのは1960年のことである。
なぜ「ホームランバー」などという、野球オリエンテッドな名前に改称されたのか? 当時の国民的スター、長嶋茂雄にあやかってのことであった。
長嶋は、1958年に大学を卒業し、巨人軍に入団したプロ野球選手である。そのデビュー戦こそ、対戦相手の国鉄の金田正一に4打席4三振を喫したものの、その後目覚ましい活躍を見せた彼は、同年のセ・リーグの本塁打王、打点王、新人王の3冠に輝いた。翌1959年には、チームメイトの王貞治を3番に配し、長嶋が4番打者を務める、いわゆる「ON砲」が巨人に定着。長嶋と王は時代の寵児となり、長嶋はこの年のリーグ首位打者になった。彼は紛れもないスターであり、当時普及しつつあった白黒テレビを通して、多くの人々が巨人の試合に熱狂した。
それなら、その人気に便乗する形で「ホームランバー」に改称されても無理はない。とは思うものの、実の所、私は当時を遡及的にしか知らない。私が生まれたのは1984年で、当時長嶋は既にプロ野球選手を引退していたし、私の物心がついた頃にブームになっていたスポーツは、F1、サッカー、バスケ、あるいは相撲で、野球ではなかった。小学校を卒業する前後には、オリックスのイチローやドジャースの野茂あたりが話題になったりしていたけども。
ホームランバーや巨人軍が人気を博した頃には生まれておらず、野球という競技にこれといって思い入れもない。ホームランバーそのものにも特別な思い出がない(あればコンビニで女子校生がどうしたとかいう話はしない)。そんな私が、コンビニでホームランバーを見つけて、どうして「うわ、懐かしい」になるのか?
復刻版ホームランバー
パッケージがなんとなく懐古的だからだろうか? または、それがさまざまな面で「現在まで続く事象の源」と目される時代の産物だからだろうか?
さすればホームランバーは、後発の世代にとって「未経験の時代」を、後進に遺贈する「ノアの箱舟」的なミルク・アイスなのかも知れない。換言すれば、私達の脳は、実際に経験していないはずの過去にすら既視感を覚えるような、「どういうこっちゃ?」なものだということでもあろうが。