けんちん汁。関東地方ではなかなかにポピュラーな料理ではないでしょうか。かくいう大阪府で生まれ育った私は、たしか二十歳前後の頃だったと思うのですが、魔夜峰央の漫画『パタリロ!』に出てきたけんちん汁で、初めてそういう料理が存在することを知りました。つまりそれまでの私の生活の中に「けんちん汁」なるものはなかったのです。
「え、けんちん汁ってメジャーじゃないの?」と関東地方の人は驚くかも知れません。そう、けんちん汁はじつは神奈川県の郷土料理なのですね。
けんちん汁
File: Kenchinjiru soy sauce flavor 2009.JPG
from the Japanese Wikipedia
(撮影:2009年3月16日)
上述の魔夜峰央は、生まれは新潟県ですが、上京してしばらくは埼玉に暮らし(そのときの知見をベースにした『翔んで埼玉』が2010年代半ばに人気を博しました)、のちに神奈川県横浜市に居を構えた漫画家です。だから、彼にとってけんちん汁は身近だったろうな、とは容易に推察できます。
まず、一般には(恐らく)けんちん汁の「けんちん」が分かりません。それは名詞なのか形容詞なのか? そもそも日常で「けんちん」なんて単語は、そうそう耳にしないはずです。なんとなれば、けんちんってちょっと卑猥な響きだよね、という人もいるかも知れない。
この「けんちん」の語源は(例によって)諸説あるのですが、一説には神奈川県の鎌倉市に佇む建長寺で作られていた汁物で、建長が訛って「けんちん」になったそうです。
建長寺・境内
出典:Kencho-ji 108599196 ac1ef7203f o.jpg
from the Japanese Wikipedia
(撮影:2006年5月11日)
具体的にけんちん汁とはどういう一品なのか? 種々様々なヴァリエーションがありますが、総じて言えば、すまし汁(お吸い物)の一種です。芋や大根、ごぼう、にんじんなど、お好みの野菜を適当に刻み、それらを炒めて、出汁を加えて煮込み、塩や醤油で味を調えて(やっぱり関東は醤油文化なんでしょうか)完成━━だそうです。
元来お寺で作られていた(かも知れない)料理ですから、けんちん汁とて当然もともとは精進料理です。
精進料理とは何か? 仏教では修行僧は殺生を禁じられています。肉類や魚貝類は「なまぐさもの」でタブーとされ、食材として使えません。だからなまぐさものに当たらない野菜類、穀類などを専らに使うことになる。それが精進料理です。有名なところでは、がんもどきも元々は雁(がん)の肉を模して作られた精進料理だそうです(たしかこれも『パタリロ!』で知ったような)。だからけんちん汁の出汁も、カツオ節などは極力使わずコンブやシイタケを用いるのが本来的なのだとか。
ここで私が気になるのは醤油です。鎌倉に建長寺が建てられたのは十三世紀のこと。しかしその当時には醤油なんて日本にはありません。少なくとも醤油があったというたしかな証拠はない。醤油が日本にいつ登場したのかは定かではありませんが、早くて十六世紀。それが庶民の間に広まったのは江戸時代中期と言われています。鎌倉時代や戦国時代には、たとえば獲れたての魚を刺身にして食べる際にも、「わさびと醤油で」とはならなかったのです。
醤油がないとなると、江戸時代以前に建長寺の修行僧たちは、どうやって味を調えていたのでしょうか。あるいは、けんちん汁は江戸時代中期より後に建長寺で開発されたのでしょうか。分かりません。ともすれば、醤油で味を調えるけんちん汁は、オリジナルのけんちん汁ではない。そういう可能性もなきにしもあらずです。
もちろん、脈々と続く歴史の中では料理のレシピだって時代に応じて変わっていくでしょう。現今、関東で親しまれているけんちん汁に難癖をつけるつもりは毛頭ありません。ただ「そういう可能性もありますよね」というだけです。Don’t get me wrong.