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二代目礼治味噌
国東半島で継承され続けたもの

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大分県は九州に属する。しかし大分の東部=国東半島は、同じ九州の長崎とか鹿児島よりは、むしろ山口県や愛媛(四国)に近い。もちろんその間には広大な青い海があるわけだが、少なくとも距離的にはそういうことになる。石垣島が沖縄本島より台湾に近いのと同じように。こういうのは、東日本の住人にはちょっとピンときにくい話ではあるまいか。といっても、大阪で暮らす私にも「ああ、そうなんや」という話であるわけだけど。

別にこの場で地理の講釈をぶつつもりはない。今回の主題「二代目礼治味噌」は、当の国東半島で長年味噌や醤油を造り続けてきた安永醸造の味噌ブランドなので、その前口上をと思って述べただけである。


実を言うと、この味噌についての記事は、二〇一五年二月に一度公開したことがある。それを全面的に改訂したのが本稿になるわけだが、なぜリライトしようと思ったのかというと、ちょっとした事情がある。当時、安永醸造の当主は四代目の安永隆一さんが務めていて、記事にもそう書いていた。ところが、翌二〇一六年に隆一さんは急逝してしまった。それから六年後の二〇二二年、ご令嬢の西百恵さんが五代目に就任されたのだが、同社にかような変化が起きた以上、記事も以前のままではいささかまずかろうと思い、今回(遅ればせながら)リライトすることにした次第である。

安永醸造の創業は一八九二年。十九世紀末であり、明治時代のことである。インターネットはおろか、コンビニもラジオも飛行機もLEDもない(ちなみにトマス・エジソンの発明した白熱電球が販売されたのは一八八一年である)。そういう時代に、初代の安永五郎一が醤油の醸造を始めた。それが安永醸造。

以降、二度の世界大戦をはさみながらも、国東の地で安永醸造は着実に継承されていった。初代から二代目、二代目から三代目へと。先述の隆一さんが四代目として当主に就任したのは、日本経済がバブルに突入する前夜と言っていいであろう一九八三年。その間には大日本帝国の斜陽化があり、それに伴う軍部の乱心と暴走があり、そのせいで世界大戦にボロ敗けしたことを受けて、天皇が神からただの「人」になるなどがあった。日本の近代史上ではそういう地殻変動がめまぐるしく起きたわけだが、しかしそれはそれとして、首都から遠く離れた大分、国東の地では、安永一族がひたすら醸造を続けていたのである。そう思うと、日本は広いなという気もするし、民衆の生活は政治や軍事とかけ離れた所があるのだなという気もする。

ともあれ一九八三年、安永隆一さんは四代目に就き、それと前後して三姉妹をもうけた。百恵さんは次女にあたる。そうして、やがて九〇年代に入ると経済バブルが崩壊するわけだが、九州の大分でそれが実感されるのには、おそらく何年かのタイムラグがあったろう。それでも確実に、リセッションの波は彼らにも及んだはずである。海沿いの町のクルマや建物を風が錆びつかせるよう、緩やかにでも着実に。百恵さんは海外で就職し、隆一さんはそのまま国東の地で醤油や味噌を造り続けたが、なかなか左団扇とは行かなかったはずである。生前、隆一さんは子供達に蔵を継いでくれとは望まなかったという。それはおそらく、自分の代で経営状態が(大なり小なり)逼迫を呈したからであろう。実際の所は分からないが、私はそう愚考する。

そして二〇一六年、先述のように隆一さんが急逝し、百恵さんは国東の地へと帰ってきた。当主が急にいなくなり、醸造のノウハウが失われてしまった蔵はもうどうしようもない。畳もう。残されたご家族はそう取り決めたが、すべての仕事をいきなり放り投げてしまうわけにもいかない。地元のいろいろな人の助力を得ながら、ご遺族は手探りで醸造を細々と続け、閉業に向けてのなだらかな降下線としてどうにか蔵を保ち続けた。そうしているうちに、百恵さんは自前の蔵での醸造作業に魅力を感じたとかで、まだ「コロナ禍」であった二〇二二年、五代目に就く決意をする。

私事になるが、私の父も今年(二〇二四年)病を得て急逝した。だからご遺族の苦労や心情は、どことなく察せられる気がする。まさか亡くなるとは思ってもいなかった人が亡くなって、その人が生前に過ごしていた場所や使っていた道具を、改めて目の当たりにする。するとそこには故人がまだいるのである。物理的あるいは生物学的には存在していないのかもしれない。でも、ふとした時に気配や面影をうっすらと感じる。そういうことがあると思う。百恵さんが醸造作業に魅力を感じたと述べたのも、一連の醸造過程を通して故人を(なんらかの通路を経て)感じられるから、という所があったのかもしれない。勝手な推測だが、私はそう思う。

「二代目礼治味噌」とあるが、礼治とは二代目当主の名前である。それが味噌の名として冠せられている。ちなみに現在、同社の醤油には「四代目隆一」という名の商品もある。継承とはそういうことであろう。蔵を長きにわたって成り立たせてきた先達が、彼らの仕事が、そこではまだしっかりと息づいているのである。


この「二代目礼治味噌」のアピール・ポイントは何かといえば、「地産地消」と「健康志向」ということになるだろう。味噌を造る原料(大豆や塩など)は地元産のものをできるだけ使い、先人の手法を踏襲してハンドメイドで造る。正に「国東ならではの味噌」であるが、そうして出来上がった味噌は、今様に言えば「オーガニック」ということになろう。昔はそれが当たり前だったが、工業が発達した二十世紀には、時代遅れとも難じられた造り方である。それが二十一世紀になると、手の平を返したように「健康に良い」と評されるようになった。長きにわたって同じことを続けていると、世間からの評言もころころ変わるという適例なのかもしれない。そう思うと、世間というのも割にアテにならない気がしますね。

国東半島かね松(安永醸造公式サイト)




 

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