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■ 2月29日から3月30日にかけて、文房具をフィーチャーいたします。







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■ 次にスピッツについて伺います。彼らとの出会いは、竹内さんが新入社員の、アシスタント・ディレクター時代ということですが、初対面の時のエピソードなどをお願いします。

T: 1989年5月に新宿ロフト(ライヴ・ハウス)で、板前さんのような髪型をして、オーバーオールを着て、ヤマハのアコースティック・ギターを抱えた草野マサムネを見た時は「何だ、このバンド」と思いましたね。当時はバンド・ブームで、タテノリと呼ばれるロック隆盛の時代でしたから、メイン・ヴォーカルがアコギを持ってる事自体、当時のバンド・シーンで珍しかった。ただ曲は凄く良くて、その日にカセットとソノシート(薄くて軽い、安価なレコード盤)を買って帰って、会社で掛けていたら、当時の先輩ディレクターが気に入ってくれたんです。


■ そこから契約交渉を?

T: 当時すでに何社かスピッツに目をつけていて、最終的には8社くらいのレコード会社が彼らと交渉をしていたんです。メンバーも自分達で賄いきれないということで、先ずマネジメント(事務所)を決めたい、となっていました。で、僕の先輩ディレクターがロード&スカイという事務所をメンバーに紹介したのが、今の関係の始まりです。


■ 竹内さんからの社内でのプレゼンなどは?

T: 僕は当時まだ若造で、会社内で政治的なことは何も出来ない、熱意だけでした。ポリドールは社内全員の顔が見える規模でしたから、会議とかでも「竹内がなんか熱くなってんなぁ、じゃあ手伝ってやっか」というような雰囲気だったんです。スピッツはブレイクするまでに5年掛かりましたけど、5年も(売れないのに)やらせてくれた、もちろんそれはレコード会社だけでなく、マネジメントの忍耐力というのもありました。



竹内修
フリーランス・ディレクター

1963年、新潟県に生まれる。
1989年2月、当時のポリドールに入社。
2009年より「wilsonic」の屋号の下、
フリーランスのプロデューサー、
ディレクターとして活動を開始。スピッツ
ウルトラタワーREAD ALOUDなど、
多くのアーティストの音楽制作に携わる。
ちなみに「wilsonic」の由来は、大好きな
Brian D. Wilson (The Beach Boys) から。
■ では紹介記事でも取り上げた『三日月ロック』について。

T: 1999年に『リサイクル』というベスト・アルバムが(ユニバーサルに一方的に)組まれ、こういう言い方もナンですが、そこでメンバーが受けたショックの反動として、初期衝動を大切にした『ハヤブサ』というアルバムが2000年に出て、一段落した後のアルバム、ですね。


■ 『ハヤブサ』では石田ショーキチさんがプロデューサーでしたが、『三日月ロック』では亀田誠治さんになりました。

T: そういう意味でも、『ハヤブサ』と『三日月ロック』は分断されていますよね。僕はそれより以前に亀田さんと仕事をしたことがあって、良いと思っていましたし、メンバーでは田村(明浩)が個人的に知り合いだったのかな、レコーディングしていて、スタジオが隣同士になったりして、面識もありましたから、亀田さんとやってみようというのは自然でしたね。


■ 発売から12年経ちますが、現在という時点から見て、『三日月ロック』はスピッツにとってどういうアルバムだと思いますか?

T: 『三日月ロック』からずっと亀田さんとやっているという意味において、「今のスピッツのスタート」じゃないですかね。『リサイクル』でデビューからそれまでというのが、ムリヤリ総括されたわけです。華々しき'90年代半ばの大ヒットを中心としたスピッツが、そこで切り取られた。それに対して、元々持っていたパンキッシュな部分だったり、ハード・ロック的なニュアンスだったりを、石田ショーキチと作り上げたのが『ハヤブサ』で、そこで「俺たち、今こういうことがやりたい」というのをやった。じゃあ、その次にスピッツとしてどういう形をやっていけば良いのか、という試行錯誤のスタートだと思います。


■ 先行シングルを、「ハネモノ」「水色の街」の2枚同時発売とした経緯は?

T: 「ハネモノ」はカルピスのCMタイアップが決まっていたから出す、でも「ハネモノ」という曲に『三日月ロック』を代表させて良いのか、という議論になりまして。ま、良いんだけど、でも今回色々な曲があるから、「今回のスピッツはコレです!」と1曲に集約させるのはちょっと、ということで2枚同時発売に。「水色の街」は、サビが♪ラララ で歌われるので、「うわっ、パンクだなぁ、これがシングルになったら痛快だな」という思いはありましたね。