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日本のアダルト・ビデオ
AV監督
代々木忠
< 2016年08月14日 >
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このインタビューは、すべての失われた官能と悦びに向けて───
思わずハンカチで首筋をぬぐいたくなるような4月半ばの金曜日。東京、渋谷の明治通りを歩いていた。通りに面したスーパーでは、足腰の弱った老人たちの出入りが目立っていて、「若者の街」の代名詞も、高齢化の波にはあらがえないのだろうかと、つい短絡的に考えてしまった。
もちろん、スーパーの顧客調査をしに渋谷を訪れたわけではない。1960年代のピンク映画の時代から活躍し続けるAV監督、代々木忠へのインタビューが主目的だった。「性と愛のカリスマ」「AV界の巨匠」など、彼を表す物々しいコピーには枚挙にいとまがない。彼は今年で齢七十八だが、今も現役で、およそ月に一本、作品をリリースしている。いったい何が彼をAVの世界にとどめ、また、性の最前線で彼は何を見てきたのか。彼の道筋と答えを聞いた。
■ お会いするのは初めてですが、失礼ながら、お歳のわりにカクシャクとしてらっしゃいますよね。
代々木忠(以下、Y): そうだよね、七十八だもんね。だから高齢者ってよく聞くけど、ふと「俺も高齢者じゃん」と思うことがある(笑)。やっぱり若い人と真剣に向き合って仕事をやってるのが大きいと思いますよ。
■ 人間、環境に左右されますからね。で、監督のお仕事となると、AV監督になるわけですが、そもそもなぜAV監督になられたんですか?
Y: 別にAV監督なんて名乗ってるわけじゃなくて、外野がそう呼ぶから、そうであるだけです。監督は監督ですからね。だからもう最近では、名刺にも肩書きなんて書いてないんですよ(笑)。
■ いっさい書いてないですね(笑)。
Y: 元々はピンク映画とかロマンポルノの制作に携わっていたんです。当時(1970年前後)はまだ家庭用ビデオ・デッキなんてなかったから、成人映画を磁気テープに落とし込んでいた。当然、「アダルト・ビデオ」って概念もないし、観る場所も全国のラブホテルやモーテルに限られてました。
■ AV前夜と言いますか。ベータやVHS規格が出て来るのは1970年代の半ばですし、普及となると1980年前後のことですからね。そのあたりの思い出など、聴かせてください。
Y: ’70年代後半には、僕は「アクトレス」というタレント事務所もやってたんです。そこには多い時で50人くらい在籍していて、その中に愛染恭子もいた。初期には「青山涼子」でしたが、武智鉄二監督の『白日夢』(1981年公開)の主演を務めた時、「愛染恭子」に改名したんですね。
『愛染恭子の本番生撮り 淫欲のうずき』
© アテナ映像
出演: 愛染恭子
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愛染は『白日夢』の撮影で本番行為をやったんですが、当時の社会状況では、映画で本番をやるなんてとんでもないことだったんです。それが大ヒットしました。そこで当時親しかったカメラマンに、彼女で一本撮ったらどうかと言われて、撮ったのが『淫欲のうずき』(1981年)。当時は物流も確立されてなかったから、一番大きなマーケットは、今で言う「大人のオモチャ屋」だった(笑)。丁度、日活や東映を辞めた人達が、「これからは映画の時代じゃない、ビデオの時代だ」ということで、ビデオ制作会社をポツポツと作り始めてた頃ですね。当時、VHSとベータのどちらが普及するか競争がありましたが、VHSが普及したのは愛染の存在が大きかったと思います。
■ と、言いますと?
Y: 当時のナショナル(現・パナソニック)などのVHS陣営が、販促戦略としてVHSデッキに愛染のビデオを付けて販売したんです。するとビデオをコピー(増産)するのが間に合わなくなるくらい、ヒットしました。だから、みんなVHSを求めたと言うよりも、愛染のビデオが観たくてVHSデッキを買ったんですね。一説には、VHSがベータより普及したのは、この販促戦略があったからだと言われてますし、そう言い切る代理店もありました。ベータはそんなことしなかったんです。それは当時のソニーに、(ベータに)技術的な自信があったからでしょう。実際、僕らが見ても、ベータの方がコンパクトで画質も良かった。でも色気には勝てないというかさ(笑)。
■ インターネットの普及も、成人向けサイトが大きな牽引力となりましたからね。スケベ心をバカにはできない(笑)。そうすると、愛染恭子という女優の存在が「VHSの普及」という社会現象を誘起し、「アダルト・ビデオ」という概念の確立に大きく貢献したことになりますが、彼女の傾国的な魅力はどんなところにあったとお考えですか?